柏艪舎〈怒涛のノンフィクションシリーズ〉 留萌沖三船殉難事件とANA857便ハイジャック事件
『海わたる聲―悲劇の樺太引揚げ船「泰東丸」 命奪われた一七〇八名の叫び』
戦後七十年以上が過ぎ、当時を語れる人が少なくなり、人々の記憶から忘れられようとしている事件――それが、『留萌沖三船殉難事件』である。
一九四五年八月二十二日未明、終戦直後に樺太からの引揚げ者を載せた三隻の船、『泰東丸』、『小笠原丸』、『第二新興丸』がソ連潜水艦により攻撃され、一七〇八名の命が失われた。
生存者の証言や目撃者がいるにもかかわらず、日本政府は国籍不明の潜水艦による攻撃として、公式にソ連潜水艦といまだ認めていない。
本書は、著者である中尾則幸氏が十二年にわたって行なった、生存者へのインタビューを元に、ドキュメンタリーノベルとして書き起こしたものだ。
ドキュメンタリーの主人公である鶴川康夫の行動は、まさに著者の生涯そのものであり、生存者の無念・慟哭に突き動かされ、仲間とともに、忘れていた『宿題』に向き合っていく。
生存者に対して実際に行なわれたインタビューテープは百をゆうに超え、そのどれもが、当時の生々しい現実を私たちに突きつけてくる。
四歳になる妹をおぶったまま波に呑まれる姉。皆を励ますために歌をうたいながら力尽きた十歳の少年。潜水艦の機銃掃射で負傷した兄を必死で背負う妹が海中に没して行くのを、見ていることしかできなかった母親。当事者の言葉は、平和な時代を謳歌する私たちの心に深く突き刺さる。
三船での犠牲者の総数は一七〇八名とされているが、当時の混乱した状況での乗船者リストには不備も多く、本来の数は遥かに多いものと考えられ、今年になっても、リストに載っていなかった犠牲者と思われる方の無縁仏の存在が新たに判明している。著者の中尾氏は「樺太引揚三船遭難犠牲者名簿」の作成をつづけ、今年の慰霊祭で墓前に捧げる予定だ。
生きた存在すら消されようとしている彼らに成仏してもらうためにも、現在を生きる私たちが、この事実を心に刻まなくてはならないだろう。
二〇一九年、本書は「北海道青少年のための200冊」に選定された。戦争を知らない若い世代にこそ読んでもらいたい一冊となっている。
『ANA857便を奪還せよ ―函館空港ハイジャック事件15時間の攻防』
一九九五年六月二十一日、羽田発函館行のANA857便が離陸直後にハイジャックされた事件を憶えておられるだろうか。
この事件は、発生から十五時間後、北海道警察の突入班による機内突入作戦により鮮やかに解決された。数名の軽傷者が出たものの、他に犠牲者が出なかったこともあり、記憶されている方は多くないかもしれない。しかし本件は、日本の航空史のみならず日本史においても、数々の『史上初』を含んだ事件だったのである。
当初ハイジャック犯は、オウム真理教の関係者と思われており、毒ガスのサリンを凶器として有している、と機内の人質も警察も信じ込んでいた。
また、『よど号事件』の教訓と、国会議事堂など主要地への意図的な墜落を危惧した日本政府と警察は、事件当初より、ハイジャック機の再離陸を許可しない方針で一貫しており、犯人からの要求を巧みにかわす交渉が求められたため、対策チームは極限の緊迫状況におかれることになった。
このハイジャック犯は、実際には、バブルの時代を謳歌し、転落した一人のエリート銀行マンだった。事件のひと月ほど前に逮捕されたオウム真理教の教祖・麻原彰晃を釈放させ自分の手で処刑し、国民のヒーローになることを妄想した単独犯にすぎず、それを見破った警察の強行突入により事件は解決した。
さて、この事件に含まれる『史上初』であるが、それは、『機内突入』、『SATの存在公表』、『報道自粛』である。
『機内突入』は、文字通り強行部隊の飛行機内への突入作戦であり、この事件が日本史上初となった。
そして『SATの存在公表』だが、日本警察の誇るSAT(特殊急襲部隊)は、事件の二十年前に結成され、『三菱銀行人質事件』などにも出動していたが、その存在が公表されることはなかった。ANA857便ハイジャック事件においてSATは裏方に回ったものの、本事件を契機に、国民に初めて公表されることになったのである。
『報道自粛』に関しては、それまでにも誘拐事件などで犯人を刺激しないため、報道を控えてもらう『報道協定』をマスコミと結ぶ事はあったが、これは事前の根回しが必要であり、今回のような緊急時において現場で自粛を呼びかける『報道自粛』のやり方はこの事件が最初とされている。
本書の一側面を切り取った説明となったが、この事件は、日本航空史におけるハイジャックの中でも特に鮮やかに解決された事件であることは間違いない。
しかしあまりにも完璧な終わり方だったため、事件が教訓として活かされず、その後に起きた『全日空61便ハイジャック事件』では機長が犠牲となった。
著者が以前に行った出版講演会で、「函館の事件後にセキュリティーチェックなどを強化していれば、全日空61便の悲劇は防げたはずだ。人は失敗からだけではなく、成功事例からも教訓を得なくてはならない」と語ったのは、真実を突いているだろう。
本書内には、ハイジャック発生からの警察やマスコミの緊迫したやり取り、ハイジャック犯の機内での行動や、なぜ事件を起こすに至ったかの経緯など、全てが詳らかにされている。特にハイジャック犯と警察の無線機でのやり取りは、現場の生々しさが感じられる。膨大な時間をかけて得られた数多くの証言や資料をもとに事件の真実に迫った本書を、ぜひご一読いただきたい。
本書はNHK-BS「アナザーストーリーズ」(2019年3月19日放送)で特集され、著者の相原氏も出演した。なお、テレビ東京「池上彰の現代史を歩く」でも特集が放送される予定だ。