音霊とパプアニューギニア
初めまして、一人版元「書肆アルス」の山口亜希子と申します。一昨年に加入しました。このたびは機会をいただきありがとうございます。
最初に社名のことを書きます。「アルス」は、俳人で古神道研究家・江戸俳諧考証家の故加藤郁乎氏が「お前さんに音霊(おとだま)が合うから」と勧めてくださいました。かねて私は郁乎先生に「独立を考えています。佳き社名を賜れませんか」と相談していましたが、ARS(ART=芸術のラテン語)と聞き、あまり大それていておこがましく、気が進みませんでした。「ぜひB案を」と恐る恐るお便りすると速達が届き、古文書めいた独特の筆跡の墨でぐりぐり書かれた和紙に、「アルスでいくべし」とありました。
仕方なく(というのもさらにおこがましいのですが)、北原白秋記念館に連絡し、事務局長さんを通じて、大正年間にアルスの社名で出版活動をされていた北原家へ仁義しました。それでもまだグズグズしていたところ、加藤郁乎氏の新刊を一緒に作ってきた装訂家の間村俊一さんから「それなら書肆を冠したらいいよ」と提案を受けました。内心「書肆(しょし)」という言葉、音の響きに強い憧れを抱いていたこともあり気持ちが固まりました。「……ということで、法務局に書肆アルスで登記しました」と御礼方々報告した日、加藤郁乎氏は顔を顰めて、「書肆は音霊が悪い。とくにお前さんはshがダメなんだ」とおっしゃいました。いまも笑い話です。音霊についてはまだよく分かっていませんが、私を「書肆主」と親しく呼んでくださる人もでき、今のところ幸せに暮らしています。書肆アルスでは郁乎氏ご逝去ののち、書斎の引き出しにあった遺稿をまとめた第14句集『了見』と、『加藤郁乎作品撰集』全三巻を刊行しました。
◉本職と内職で50-50
前置きが長くなってしまいました。私は1991年4月、出版社に新卒入社し、山あり谷ありを経て2011年1月にこの版元を創りました。その間、他に4つの出版社を経験しています。うち2社は創業に参加し2社とも現在稼働中。1社は出戻り。残る1社は数千万円の借金の一部を私におっかぶせて消滅しました。この借金話は本稿では割愛します。34年の仕事人生で籍を置いた版元は全6社となります。就職して4年目からゲラを動かせる身分となり、以来今日まで手元には何かのゲラがあり、いつも「次に出版する本または雑誌」を抱える状態で生きてきました。とても幸せなことでした。ただ、これは今日までの話で、明日どうなるかはわかりません。
編集一筋といえば聞こえはいいですが、1つを貫くことで失ってきたことは、たぶん数知れないだろうと思います。当然と言いますか、私も大学講師などの内職で食い繋いでいます。ただ、幼い頃から学校の先生になりたかったこともあって、初めて教壇に立った時は幸せすぎて気絶しかけました。ほかに社会福祉法人埼玉福祉会から業務委託をいただき、公共図書館が提供する弱視者のための「大活字本」の選書と許諾作業をやっております。後述しますが、全日本ろうあ連盟の業務委託もいただいているので、本職と内職は50-50という状態です。
◉俳句甲子園公式作品集
大学生とワイワイ過ごすうちにできたのが『俳句甲子園公式作品集』です。
毎年夏に全国の高校生たちが勝っては泣き負けては泣く、今なお多くの可能性を創出し続けている俳句甲子園大会は来年28年目となります。第13回大会で『一冊まるごと俳句甲子園』
というムックを編集し、その成功体験と人の縁で創刊しました。0号から14年間、取材・文字起こし・校正・写真撮影すべて自前で、その根本となる企画は大学生たちが担います。「自分も編集者になりたい」と、出版社の扉を叩く学生を何人か送り出しました。彼らは、もはや私など足元にも及ばない優秀な編集者として現在、第一線で活躍しています。何億人という読者へ日本のコンテンツを届けるエディターもいます。そんな先輩方に憧れて、編集部の門を叩く新大学生が続きます。この循環は雑誌を出す限り続くことでしょう。目の前の本作りで手いっぱいだった私の人生に、オマケのようにもたらされた宝物です。
◉パプアニューギニアの悟り
最初の会社を辞めるときは悩みに悩みました。独りでは答えを出せず、戦後50年記念出版で懇意になったニューギニア方面遺族会がパプア・ニューギニアへ遺骨収集に行くのに加えてもらい、赤道直下で頭を冷やしました。約14万人の日本軍兵士が飢えとマラリアで命を落としたと伝えられる地。ポートモレスビーから激戦地ラエ、ワウと巡り、カビエン、ラバウルへ足を伸ばしマダンまで。来る日も来る日も朝が来て夜になり、雨雲が来て雨が降り、雲が去って晴れました。50年前に墜落したままの日本の戦闘機もその繰り返しの中にありました。生い茂った草木を掻き分けて寄ってくる半裸の子たちは人懐こく、親たちは私を無条件に信じました。
ふと、私の悩みはなんと小さいことかと感じました。ちっぽけな私がどれほど悩み考えたところで、どうにもならないものがこの世にはある。ならば流れに身を任せようと覚悟しました。この「パプアニューギニアの悟り」はわが人生の大きな支えです。そのせいか、「自分がこだわる装丁」とか、「自分を高められる組織へ」といった、自分主体のプラス志向が育っていません。一人版元をしていると、いろいろ判断しないとまずい場面もあるので、造形美へのこだわりが強いとかねて信頼する人を頼り、フライヤーや栞など、デザインが発生するものならどんな小さなものでも、実物を見せてOKをもらってから校了することにしています。この人は、食うや食わずやの極貧生活でも、歯磨き粉は4〜5種類を常備し、「味の違いを楽しんでいます」と言って、ガリガリに痩せていたイラストレーターで、現在の私の夫です。最近、オノマトペの絵本『ガラガラガッシャーン!!』を刊行しました。
パプアニューギニアで現地人と見紛う日本人に出会いました。知り合ってみると、東大で博士(工学)の学位を取得している超のつく秀才でした。彼も「パプアニューギニアの悟り」を得たんだと思います。当社が業務委託をいただいている全日本ろうあ連盟機関誌「季刊みみ」が、特集で大規模アンケート調査を行う時には氏と苦楽を共にしています。
単行本では、「これを出さなかったら今この時代に編集者を名乗る資格が私にあるだろうか」と、自問自答した原稿との遭遇がありました。現在、障害者文学研究の第一線で仕事をしている荒井裕樹さんの博士論文で、氏のデビュー作となる『隔離の文学』です。
出版社は複数人でやるのがいいと考えていた私が一転、ひとりで独立を決めることとなる1冊でもあります。この作品との邂逅については、いずれ機会を得て書いてみたいと思っています。(了)