はじまりの記
信陽堂の丹治史彦と申します。
版元としてはまだ10タイトルほどの駆け出しですが、出版の世界ではかれこれ40年弱仕事をしてきました。自己紹介代わりに、自分が出版社で働きはじめた経緯を書いてみます。
10代のはじめに、当時講談社文庫に入っていた童話作家・佐藤さとるさんの短篇集のあとがきで編集者という仕事を知りました。著者と書店以外にも、本に関わる人がいることを知った最初でした。いま思えば当たり前のことですが、中学生になったばかりの子どもには、それだけで本の世界がとても広がったように思えたのです。そして、自分もその世界の一端にいられたら、との思いが芽生えました。以来編集という仕事に憧れていました。
高校を卒業し、地元の予備校で一浪。その後東京の大学に進学しましたがどうしても馴染めず、ゴールデンウィーク明けにはまったく行かなくなっていました。本を読む時間だけはたくさんありました。昼夜逆転の日々を過ごしながら、近所の水道端図書館に通い、本屋さんをめぐるうちに、ますます編集や出版への思いが募ってきます。そこで、出版社でアルバイトをすることを思いつきました。
本棚にある自分が好きな本を取り出し、奥付の住所を頼りに出版社を(アポなしで)訪ね、「アルバイトに雇ってもらえませんか?」と受付で直談判する。当然「お引き取りください」と返される訳ですが、それでもめげず次の日も、また次の日も出版社を訪ね歩いた19歳の初夏でした。
諦めかけた頃に訪ねた出版社は池袋のオフィスビルにありました。受付もないビルの7階のパーテーションで仕切られた一角、天井からぶら下がるプレートを頼りに、あまりにもあっけなく出版社までたどり着いていました。
「あの、アルバイトで働かせてもらえませんか?」と、さすがに度重なる門前払いに慎重になっている私。通路にしゃがみこんで何か作業をしていた男性が、「え?」と驚いたように顔を上げます。当然また追い返されると思い半身を入り口の方に向けかけていると、「アルバイト? なんでうちなの? ちょっと話を聞かせて」となりました。持参していた絵本をカバンから取りだして「この本、大好きなんです。この本を出している会社で働きたいと思って来ました」と答えました。
たむらしげるさんの『うちゅうスケート』という本で、仙台の金港堂で買い求めた本でした。
「うちは見ての通り小さな会社で、それほど人を雇える余裕はありません。つい最近パートの人をお願いしたばかりなので、すぐにお願いできる仕事はないけれど、必要になったら連絡するね。取りあえず履歴書を置いていてください」
「履歴書……ですか? すみません、持ってません……」
お恥ずかしながら、10社以上も出版社を訪ね歩いていたのに、情報誌で求人を探すという知恵もなく、まして履歴書を用意することなど露ほども思わず、汗まみれで自転車を走らせていたのです。しかたないなあ、という感じでメモを渡され、住所、氏名、電話番号を書きました。
その日を境に、出版社めぐりはやめてしまいました。勢いだけで駈けまわっていた自分が恥ずかしく、もう次の出版社を探す気持ちになれなかったのです。
また昼夜逆転の生活に戻りました。深夜スーパーのレジ打ちと品出しのバイトをし、明るくなってから寝床に入り、昼過ぎに目覚めるような日々。自分はここで何やってるんだろう。
そんなある日、電話が鳴りました。
「あ、丹治くん? パートの人が辞めることになったので、よかったらアルバイトに来ませんか?」
履歴書も持参しない非常識な小僧だったと、消え入りそうに小さく小さくなっていた自分に声をかけてくれたのです。
「はい! 今からでも行けます! すぐ行きます!」
すっかり有頂天でそう答えました。
その会社はリブロポートという版元で、7人ほどの小さな会社でした。
私の仕事は、いわゆる電話番です。
「まずはこれを読んで書名や著者名を覚えてください」といわれ、手渡された目録を熟読することから仕事がはじまりました。絵本の章にはあの『うちゅうスケート』も載っています。自分がこの本を出している会社にいることが、嬉しくて仕方ありませんでした。
全国の書店や取次からかかってくる電話を受けて書名と部数を短冊に記入し、夕方にはそれらをまとめて倉庫にFAXします。新刊が出るたびに、全国の書店さんに注文書を送ります。インターネットもメールもない時代ですので、手書きのリストから数百軒分の宛名を封筒に書きました。何度も繰り返すうちに、全国津々浦々の書店さんの名前をすっかり憶えてしまいました。注文の電話を受けると、店名から自然に住所が浮かぶようになりました。注文の傾向から勝手に棚の様子を想像して、実際に訪ねる機会があると「答え合わせ」をしたりもしました。
そのうちに、取次への見本出しや書店さんへの直納も担当するようになり、徐々に出版の世界のことを知っていきました。
小さな出版社のなんでも屋の小僧として、人手が足りなさそうな場面では何でもやらせてもらいました。編集者のみなさんからも、デザイン事務所からの版下の引き取りや書庫の整理、不要になったゲラの処分などのお手伝いをさせてもらえるようになりました。呪文のような文字が細かく書き込まれた印刷の指定が実際にカラーで印刷される過程も、この時期に「処分しておいて」とドサッと渡された紙の束から学びました。
19歳の秋にアルバイトとしてもぐり込み、そのままその会社に居着きました。数年のうちに編集をやってみたいと社長にお願いして、いつのまにか編集者として働きはじめました。これが私の編集生活の第一歩です。
いま思えば、牧歌的な時代の、最後の最後だったのかもしれません。
それから30数年がたちました。その後リブロポートからメディアファクトリーに移り、2003年にアノニマ・スタジオを設立しました。2010年にはスタッフたちに託して離脱、それ以来信陽堂として活動しています。最初の10年間は編集プロダクションとして書籍や広報誌の制作を請け負ってきました。2020年からは、コロナに弾き出されるようにして、やっと自社の出版活動もスタートしていまに至ります。
佐藤さとるさんの文庫で出会った編集者という仕事に憧れた少年は、すっかり白髪の男になりました。仕事だからといえばそれまでですが、いまだに本づくりを続けているのはやはり「面白くてたまらないから」ということになります。作業や工程はある程度平準化できても、一冊一冊新しい原稿からふさわしい形を見つけ、整えて、仕上げてゆく。そうして生まれた本は、自分のいのちをはるかに超えて未来の人の手にも届くでしょう。そのことが、キリキリするような緊張感もふくめて、面白くてたまらないのです。