・ヤフーで【心のノート】と検索してみたら、NECのパソコン直販店のサイトが1位、2位に富士通のノートパソコンへのサイトでした。(まずは版元ドットコム的感想)
『汝、殺す事なかれ』『汝、姦淫するなかれ』『盗みを働いてはならない』・・・・・・。
世界の多くの宗教がこうした戒律を定めている。しかしながら、一部の宗教を除いて多くの宗教は行為規範に限定して戒律を定めている。名前は忘れましたが、ある禅宗の高僧が修業時代、座禅をするにはするのだけれど、どうしても悶々としムラムラが消えず次から次へと邪なことが浮かんできてしまう。多分、根がとても助平なのだと思いますが悩んだ末、師匠に相談したところ『喝!』ではなくて『ええんじゃない』みたいなことを言われて(ええの?)と開き直り、妄想が自然と浮かんでくるのに任せ、となると自分は安心して水底へ沈んでいき、とうとう悟りの境地に至ることができたという逸話がありました。
文部科学省が作った『心のノート』、長引く不況とはいえ何も国に支給してもらわなくても1冊くらい、親ごさんに買ってもらっても差し障りはなく、かつ無印のノートは100円(問題はどこまで消費税が上がるかだが)である。しかも『心のノート』には、ほんわかとしたファンタジー的印刷物で一杯で余白が極端に少なく、「書き込みできへんやんか!」と子どもでなくても、言いたくなります。
さて、『心のノート』について、小社の季刊誌『子どもプラス Vol.16』(04年2月刊)にて特集を組みました。その中の「不気味さの正体」(芹沢俊介×斎藤次郎)で、斎藤次郎さんは代名詞の問題をあげています。このノート(特に1・2年用)は「あなた」という呼びかけで始まり、その後この人称代名詞が使用され続けます。また「僕」や「私」といった一人称は事例としてのエピソードや文章に限られます。そして正式に「わたし」という言葉が使われるのは、最章のタイトル「あなたがそだつまち」に添えられた「わたしをそだてるまち」という言い替えにおいてです。この「あなた=わたし」という受動的な呼び掛けから、能動的な一人称へとすり替えていくところに『心のノート』の不気味さや危うさがあるのだと斎藤さんは指摘します。
まさにその通りで、道徳教育という眉唾ものをオブラートしている事柄、そこが「『心のノート』ノー」と言わせたくなる要因のひとつなのです。
さらに言うならば、そのすり替えを保証するものとして文体の当然口調があげられます。例えば「中学生だもの自分で考え判断し実行するのはあたりまえ」(中学校用、23頁)や「正直に生きることは、自分の心を明るくします」(小学3・4年用、28頁)などです。
また、戦時下の独裁、オウムのテロリズム、そして『心のノート』による子ども、ひいては大人に至る全体主義へと向かわせる文体的な力学を比較すると興味深いことが分かります。
・戦時下における命令口調。これは人を強制的(身体的・心理的)に統率するけれども反動的に反体制を生み出していきます。
・オウムのテロリズムによる断定口調。先行きの分からない不安の時代にあってこの口調はハマルひとは痙攣的にハマッてしまいます(心理的・補完的に身体的)。ダイレクトに無意識へ届けることのできる口調ですが、ハマらない人には意識下でシャットアウトされます。
・『心のノート』による当然口調。意識下での検閲が難しくすんなり無意識に届き、述べられた言葉は無意識と意識と行為を垂直に貫いていきます。
当然口調の危険性は、無意識と意識を連結させてしまう点です。心ここにあらず、心機能の停止、自らが判断するという主体性が崩壊し、まさに死人の群れを作りだしてしまう可能性があることなのです。
また、当然口調が作りだす限界線はその限界線に対して肯定的な生活をしているものになんら支障をきたすこともなく、かえって「自分は正しいのだ」という優越感(死人の優越)をもたらしますが、限界線に対して否定的な生活をしているもの、せざるを得ないものにとっては、屈辱感や自虐意識をもたらし、さらにドロップアウトを助長します。「家族みんなが幸せ」といっても、不幸せな家族もあるわけでその家族はその地点から生きていかねばならないのです。言うなれば、そこが主体的なゼロ地点の限界線でなくてはならないのに、全体的な限界線においてはマイナス地点であるという二重の基準に苦しまねばならなくなるわけです。
排除するものは排除し、従えるものは統制していく(心理的統制のみで)。それを可能にしていく文体、それを凝縮したのが『心のノート』なのです。このノートの作成に著名な心理学者が関わっているのは、心を扱うからではなく心をどう統制していくかの点だったのかも知れません。
心に限界線を引き、一つの価値基準以外をやわらかく排除していくこと。宗教でさえひとり一人の「心」を尊重することを守ってきたにも関わらず、『心のノート』はその領域を侵犯しようとしている。ノートによって認められた心以外は「心にノー」を巧みに突きつけていく。私はそのようなことを認めることはできません。
最後に『子どもプラス Vol.16』(特集の終わりに/斎藤次郎)を掲載して日誌を終わります。
「『心のノート』はいらないけど、でも心はとても大事なものです。美しい、おおらかな心だけが大切なのではありません。いじわるしたり、ウソついたり、いじけたり、泣きたくなったりする、そういう心も、丸ごと大事なのだと思います。
心を大事にするというのは、よくはわかりませんが、少しゆったりして自分やほかの人のことを考えることだという気がします。いじわるやウソつきにも、みんな理由がありますし、そういうピンチをきりぬける方法がきっとあるはずです。
元気がいいときはいいのです。意欲がなえ、バランスを崩し、調子が悪くなったときこそ、子どもの心が「大事にして!」と叫んでいるのに違いありません。そういう子どもたちに精いっぱい寄り添っていこう。
この特集を組んで、私たちはまた改めて、ふつうのくらしの大切さを思うのです。」