匍匐前進10年目。ひとり出版社×2で事務所をシェア。
2022年夏・某日
「実は今の事務所を引っ越そうと思っているんですよ。“ひとり出版社”にはどうも広すぎて……」
地元の出版仲間である野村亮さんがある日、相談に来た。
野村さんは2005年から勤めた弦書房を退社し、2019年に古小烏舎(ふるこがらすしゃ)を立ち上げていたが、書店との直取引を代行しているトランスビューさんに流通を依頼することになった結果、事務所に在庫を置く必要がなくなったため、かえってスペースが広すぎ、家賃もバカにならないのだという。
「おぉ、それはグッドタイミング!いっそ2人で新しい事務所に移ってシェアしませんか?」
実はこちとら創業10年目、1DK8畳の事務所が在庫と返品で埋まりつつあった。そろそろ引っ越しをと考えていたタイミングだったのだ。2社でさらに広い新事務所を借りて家賃やコピー機などもろもろを折半すれば安上がりだし、2人でチームのように動けばまた違う仕事の広がりがあるかもしれないと考えたのだった。
手頃な物件が見つかったのは都心にほど近い薬院というエリア。以前は福岡城や大濠公園の緑が四季を通して楽しめる大手門という町だったので未練もあったが、今度は自宅からチャリでわずか15分。その便利さを買った。
一国一城を旨とする“ひとり出版社”が事務所をシェアなんてと訝る方もおられるだろうが、その昔は珍しいことではなかった。事実、わが福岡が生んだ天才エディター・伊達得夫さんの書肆ユリイカがそれ。神保町にあったわずか10坪ほどのスペースにユリイカ、昭森社、思潮社の3社が同居していたらしい。小出版社の棲み処なんてそもそもがわびしいものなのだ。
それに野村さんとはもう20年ほどの付き合いだ。以前、地元出版社12社でつくっていたフリーペーパー「はかた版元新聞」時代から、編集・営業・流通といった有益な業界情報から役に立たない路地裏の呑み屋情報まで、折りに触れやりとりをしてきた。気易い間柄なのである。
新事務所の備品は2人仲良く、イケアでショッピング。
「こんなカーテン吊りましょか」
「ここは絵でも吊りましょか」
「ここで首でも吊りましょか」
と、夫婦漫才さながらである。
とはいってもそこは大人同士。あとあと揉めるのも嫌だから、同居にあたっては一つだけ条件を突きつけた。
「私は昼寝が日課です。私が昼間からグーグー鼾をかいていても放っておいてください」
てなわけで新事務所での暮らしは移転から半年を経て至極快適である。
2022年秋・某日
秋は恒例の「ブックオカ」シーズン。
コロナによる2年のブランクを経て、17年目の今年は久しぶりに「けやき通り」に舞台を戻しての古本市だった。そのせいか出店者の申し込みは過去にないハイペースで、あっという間に予定の80組が埋まった。常連組の数組がおっとり刀で申し込んできたため、あわてて20枠を増やしたが、それでもお断りせざるを得ずうれしい悲鳴だった。
また今回は久々のリアルでのトークイベントも実施した。個人的に楽しみにしていたゲストは星野博美さん。『世界は五反田で始まった』(ゲンロン)刊行を記念してのものだった(その後、大佛次郎賞を受賞されめでたい限り!)が、実は彼女をお招きするにあたり大切なミッションがあった―—。
遡ること5年前、ブックオカでは九州国立博物館で当時開催された桃山美術の展覧会とのコラボで星野さんをお招きし、「キリシタンの世紀」についてトークしてもらったことがあった。トーク終了後、星野さんをまじえ彼女が大ファンだというホークスゆかりの中華料理店で大いに盛り上がり、酔った勢いもあって「またお招きしますからね!」と宣言した。すると星野さんが「ありがとうございます。もし次回来るときは角田光代さんと(福岡で)再会したいなぁ」とおっしゃったのだ。そのころブックオカでは数年連続で角田さんをお招きしていたから、そんな話題からの星野さん発言なのだが、よくよく聞けば写真家でもある星野さんは角田さんが直木賞(だったか)を受賞された折に彼女のスチールを撮影しており、角田さんの文庫本『ドラママチ』の表紙写真も星野さん撮影のものなのだとか。
そして今年、星野さんのトーク会場であるブックスキューブリックの大井実さんと日程を詰めていると、何とトークの候補日の前日に角田さんをお招きすることになっているというではないか。これは何かの運命だ。ぜひお二人の再会の場を設定したい。
いよいよトーク当日。再会の場は角田さんのトーク翌日。博多の総鎮守・櫛田神社近くの蕎麦屋を予約しておいた。星野さんは夜のトークに先駆けて昼頃着の飛行機で福岡入りする予定である。
ところが朝、メールをチェックすると星野さんから、
「寝坊しました。昨日いろいろあって。ということで角田さんとのお昼の約束には間に合いません。夜のトークまでには福岡に行きます。最悪新幹線で行きます」
との連絡。
「な、なぬー?」
どうしよう。一気に血の気が引いたが覆水は盆に返らない。もうこうなったらこの話をネタにするしかない。角田さんはじめ関係者に連絡。角田さんには申し訳ないがお昼は星野さん抜きで精一杯おもてなしすることにした。
昼間から蕎麦と日本酒でいい気分になったころ、個室の戸がそっと開いた。
「……遅くなりました。星野です」
「えー! どうやって来たんですか!?」
旅慣れた星野さんは代替便の可能性を信じて速攻で羽田に向かったらしい。星野さんの格言は「5分落ち込め。あとは立ち上がれ」。素敵すぎる。道すがらスマホで「寝坊 飛行機 どうしよう」という超具体的すぎるキーワードで検索し、まずは航空会社に掛け合うべきとの結論に達した。
そんなすったもんだの挙げ句、運良く“神対応”の係員から無償で代替便に振り替えてもらい、多少の遅刻はあったものの無事、角田さんとの再会を祝い、盛況のうちにその夜のトークを終えたのであった。
翌日は星野さんが目下ハマっているという「馬」つながりで玄界灘に面する志賀島の元寇関連の史跡を案内。何とも役得な一日。やはりリアルはいいなぁ。当たり前な日常のありがたさを噛み締めた17年目のブックオカだった。
2022年・冬
ブックオカも無事終わり、本当に久しぶりの休日を家でダラダラ過ごしていると息子がスマホの画面をつきつけ、「こんなニュース知っとる?」。何と「渡辺京二さん死去」の報せ。
渡辺さんは御存知の通り長年、石牟礼道子さんを編集者として支えた方で、ご自身も『逝きし世の面影』や『北一輝』『小さき者の近代』など近代史・民衆史・思想史などの分野で偉大な業績を残して来られた方である。
私の前職時代お世話になった石風社の福元満治代表は学生時代、渡辺さんや石牟礼さんらの下で水俣病事件を共に戦った方で、いわば渡辺さんの弟子筋にあたる。ということは渡辺さんは大師匠にあたる存在であり、渡辺さんからすると私は孫弟子にあたるわけだ(と勝手に自認)。私自身も20代のころから渡辺さんの主要な作品はほぼ愛読してきた(一番衝撃だったのは『ドストエフスキイの政治思想』)。さらに言うと小社でも1冊、渡辺さんの熊本での講演を冊子にしたものを制作・販売させてもらい、その折には実に温かいお便りを頂戴していた(『あなたにとって文学とは何か』九州文化協会発行/忘羊社発売)。
結局お会いできたのはその折だけだったが、お別れの場に立ち会いたいとの思いがやまず、熊本での葬儀に参列させてもらうことにした。仕事で行き慣れた熊本の町だが、特にこの日は冬枯れた景色も相まって寂しさがいや増すよう。
ご葬儀では、水俣の運動が始まったころの話や晩年のお仕事のことまでお二人が交代で弔辞を述べられたあと、最後に娘さんが実に静々としたやわらかな語り口でお礼を述べられた。渡辺さんのような方を父に持つということがどういうことなのか、色んな意味で想像を絶するご経験のはずだが、娘さんは「私たちはそれを普通のことだと思っていた。正月だけは家にいてくれた。優しい父だった」という趣旨のことを語られた。同じ編集者といってもこちらは「三下」以下だが、正月だけはちゃんと家にいることにします。
渡辺さん、お会いできたのは一度だけでしたが、あなたのおかげで今の私があるといっても過言ではありません。ありがとうございました。そして92年の生涯、本当にお疲れさまでした。
2023年・新春
謹賀新年。
年を経るごとに1年の経過を早く感じるようになった。本のスピード(寿命?)もしかり。年齢のせいだけでなく時間の流れが年々、早まっているような気がする。とは言え、“スローメディア”である本にしか作り出せない時間の流れというものもあるはずだ。猛烈な時流のスピードにはもはや抗えないかもしれないが、今年も昼寝を欠かさず、淡々とした日常やかけがえのない仲間たちとの時間を大切にしながら本づくりに勤しんでいきたいと思う。