2011年3月11日――東北大震災、気仙沼のおばあちゃんたち
東京から上田への転居(住まいだけ。梨の木舎は相変わらず神保町にある)を決めたのは、震災の衝撃のせいだった。奥の在庫棚から2000冊が崩れた。棚はひしゃげた。3カ月間、片付けられなかった。東北の津波の映像は繰り返しテレビから流され、脳裏に焼き付いて離れない。このままこの生活は続けられない。何かを変えないと苦しい。
2011年3月11日東北大震災、つづいて福島原発が崩壊した。世界は一変した。もう元の暮らしにはもどれない。広島型原発150個分の放射能が放出されたと読んだ記憶がある。日本列島は放射能汚染列島になった。現実に起きたこととは思えない。『風の谷のナウシカ』は世界が核戦争で滅びた後の世界を描いていると知人は言う。『ゴジラ』も『ウルトラマン』も巨大になった怪獣が登場する。
当時枝野官房長官は、「さしあたっての危険はありません」と言い続けた。広島原爆150個分の放射能がもれだしていても。「快適な日常」が延々と続くと思いたい人たちが政治を握っている。彼らにとって「快適」とはなんだろう。「お金」「政治権力」だろうか。しかしもう世界は快適ではない。世界は、あの日から放射能時代に入った。
2011年1月息子直人が、ゆきちゃんと暮らすために家を出て行ったあと、13万7000円の賃貸マンションに居続けようかどうしようか迷った。マンションは善福寺公園の森の続き、豊かな自然のなかにあった。
JR西荻窪駅でおり北口に出る。線路と平行にある商店街を東京女子大方向に歩く。新刊本屋に古本屋、タイラーメン屋、いっぱい飲み屋、ケーキ屋、イタリア料理店が軒を連ねる。女子大通りに出ると、骨董品の店が並ぶ、オーダー靴屋もある。染物屋、蕎麦屋を通り過ぎる。脇にはいると、桜の木の周りに寄り添って人々が暮らしているような一角があり、先の急坂を降りると善福寺公園の南の池の端に出る。ここから北に向かって水辺と森が広がる。桜に銀杏にケヤキにメタセコイアにつつじ。季節には、紫と黄色の花菖蒲が水辺を彩る。七面鳥と鶏を親に持つバリケン鳥もここを住処にする。春には、カルガモのひなが親に導かれて餌を啄んでいる。冬、おなが鴨やキンクロハジロが飛来し、春が来る前には飛び立ってゆく。カイツブリとバンが残され、やれやれと広くなった池を泳ぎ回る。
引っ越しは7月23日に決めた。
その1週間前、気仙沼に出かけた。画家アキノイサムの友だちの門ちゃんがいる。普段は半蔵レストハウスを経営し、週末はライブハウスになる。いまはボランティアセンターになっているという。一関で新幹線を乗り換え、気仙沼で降りて、宮城交通バスに乗り、巨釜半蔵(おおがまはんぞう)入り口で降りる。東京から7時間半。1泊だから大したことはできない。しかし行くことが必要だった。気仙沼市唐桑町小谷根。海面から30メートルの断崖のうえに立つライブハウスは、津波からまぬがれた。敷地内に、過去の津波の記録碑が建ち、柳田國男の一文が刻まれている。
海沿いの漁村は被害にあった。仮設住宅のおばあさんたちは、夫をさらわれた人もいる、中学生の孫が帰ってこないという人もいる。すべての日常が流されたのは共通していた。
「たしか、靴下があったはずだなーと探そうとするんだ。それで、ああそうだ流されたんだって」
「そうだ、しょっちゅうだ」
仮設の空き地に急ごしらえで売店が開店していた。支援物資が並び、必要な人は持っていく。気持ちばかりの小銭を入れる箱がある。店番はボランティアがかわるがわる担当する。ボランティアの中には、被災した人もいる。お店の一角のベンチに座ってお茶を飲みながらおばあちゃんたちはおしゃべりする。内容はよくわからない。これが生ではじめてきいた気仙語。耳に心地いい。一人一人の話を聞きたかった。母と同じ年ぐらいのおばあちゃんたちは、お店が開くと集まってきて、おしゃべりにひと時を過ごす。
先日門ちゃんに電話した。あの売店は閉鎖したという。おばあちゃんたちはどこに集まってお茶を飲んでいるんだろう。
唐桑から帰る日、ボランティアセンターの英子さんが駅まで送ってくれるという。センターの庭で待つ間に救急車がサイレンをならしてくる。
「何があったの?」
「漂流遺体らしいものが流れ着いたらしい。ここに来るべくして来たんだな」近くで作業していた人がつぶやいた。いまでも時々帰ってくる人があるという。沖まで流されて、4カ月の漂流ののちに戻ってきた。ここが自分の町だったのかわからない、でも海岸はつながっているのだから。
7月23日――ユリ子さんの体験
友だちに紹介されたご近所の長田運送は、いまどき珍しいほろ付きの2トン車を使っている。左右の幅より屋根までの高さがある。ぎっしり詰め込んだ荷物の重みで、タイヤがおしつぶされている。碓氷峠はきつい、70キロで走るという。70代のおやじさんと50代後半の社員のコンビは、それでも、3時間半で上田の転居先、母の家に到着した。
荷物を運びこんで一息ついて、母のいる「大畑サテライト」に電話しようとケータイをみたところ何通もの着信歴がある。
「ユリ子さん、からだがゆるんでるんです。救急車を呼んでもいいでしょうか」
「はい、お願いします。すぐに行きます」
ユリ子さんは、救急隊員が2つめにあたった丸子中央病院が受け入れた。脳のCTスキャンと胸のレントゲンを撮った。突発的一時的脳梗塞という(ような)診断だった。救急車のなかで手当てを受けている間に血栓はとれたらしい。
「今日帰ってもいいですが、1日泊まりますか」救急医は言った。
翌日病院の内科部長が診察した。「検査しますので、1週間入院してください」
「(ええ?)昨日は、今日退院してもいいと言われました」「MRIとか、いろいろ検査するので1週間はかかります。いいですね」
丸々太った部長の顔には、反論するなんてとんでもないやつだ、という不快感がありありと見て取れた。「…は…い…」不審を残したままの返事を確認して、部屋を出て行った。
同席した看護師長の北村里子さんの、「残された時間を大切にしてください」で、我に返った。「そうだ、ユリ子さんには時間がない」
聞けばMRIはガンガン音がする真っ暗闇のドームのなかでの検査らしい。そんなところに20分もいたら、助かる命も助からない。診断はついている。検査は望まない…。
1週間もここにいたら、ユリ子さんは死んでしまう。ナースステーションに走った。さっき同席していた北村里子さんがいた。
「お話があるんですが」
北村看護師長は、休憩室に座って話を聞いてくれた。
「ユリ子さんは、大畑サテライトに4年いました。もうあまり時間がないかもしれない。だとしたら、最後を迎えるとしたら、4年間寝起きしたユリ子さんの部屋で迎えたいんです。サテライトの方たちとも最後は母の部屋で、前からそういう話しをしています」
「わかりました。ご家族の意思は、医者とけんかしてでも押し通していいんですよ。医者の言うとおりにしなければいけないという、いまはそういう時代ではありません。わたしから主治医にはなします」
翌日の退院が決まった。サテライトから迎えに来てくれるという手配もとられた。
7月25日月曜日、サテライトの職員さんに付き添われストレッチャーでユリ子さんは自分の部屋に戻った。
すぐにかかりつけの真田クリニックの沢井院長が往診してくれた。
「ユリ子さん、こんにちは。大丈夫、大丈夫、元気ですね」
母の顔をみて大きな声で話す。よかった。
「1週間は大丈夫です」(1週間だけ?)
「元気なうちに会いたい人に会わせてあげてね、いい顔見せてください。
ユリ子さんはいま、あっちの世界とこっちの世界を行ったり来たりしてます。
この話も全部きいてますよ。みんなで、ベッドのまわりで、昔のこと話したり賑やかにしてあげてください」
沢井先生の声を聴きながら、わたしの心が、ドラマチックに変化した。
――そうだ、人は死ぬんだ、と素直に思った。死ぬことを受け入れないと、ユリ子さんは安らかに向こうの世界にいけない。わたしも苦しい。直人もゆきちゃんも苦しい。気仙沼の非業の死を迎えた人たちのことをおもった。東北震災犠牲者の遺族はどんなにつらいことだろうと思った。
翌日、兄の丈夫さんとお葬式の話をベッドサイドでした。実はこの人と話すのは苦しい。しかし家族葬にしたいといったら、丈夫さんは、「自分たちの葬式もそうしたいと思っている」という。家族で、気持ちよく送りたい。孫やひ孫に囲まれて旅立ってほしい。
ユリ子さんは、その後安心したのか、奇跡的に回復した。
昨日(倒れて3カ月後)は、本当のユリ子さんの家に戻った。東京から帰ってきた直人と臨月のゆきちゃんと並んで、にこにこと庭を眺める。お仏壇の長女美奈子の写真に涙をうかべた。孫のみいちゃんとひ孫のりっくんも到着して、乾杯。
10月1日――『天の火』、原発を止めるためにあらゆる力を
『天の火』(梨の木舎刊 46判上製 定価1400円+税)は、会議通訳(同時通訳)者の高倉やえさんのはじめての小説である。湾岸戦争のNHKの同時通訳は彼女が担当したという。さまざまな情報に接する立場にいて、原発の企業提携交渉のかずかずにも立ちあっている。異文化同士がふれあう場で仕事をしながらナショナルなものを背負いつつ、しかしつまるところ人間の関係は一人一人の人間の営みが作り上げるのよと言っているのだ。
タイトルは、『神の火』としていたが、うかつにも髙村薫に同名の小説があることを知らなかった。同じように原発を扱っている。カバー校正の時点で、火木に出勤してくれる松代さんが指摘してくれた。タイトルは『天の火』にした。
原発この手に負えない存在。人間の小さな知恵や日々の工夫などというものは踏み潰して進む。すべてが大量に動く。エネルギー、お金。
原発事故が起きた時、戦争はこうやって推進されたのだと胸におちた。
「さしあたっての危険はありません」と、「日本は敵艦隊を殲滅しました」はそっくり同じ構造の中でつくられたではないか。いま私たちは、インタネットで情報を手に入れることができる。だから知ろうと思ったら知ることはできる。しかし人は騙される。甘い言葉に騙される。ほんとうのことを、知りたい。最悪の事故が起きた。これ以上は騙されたくない。たくさんの子どもたちが危険に晒されている。
10月29日――クムジュハルモニに会いに釜山へ行く
『花と話すハルモニ』(仮タイトル 著者イ・キュヘ)は、日本軍の慰安婦にされたファン・クムジュさんの半生を追っている。来年早々の発売予定だ。昨年翻訳原稿を読んで、この人に会いたい、会わなければと思っていた。ユリ子さんの状態が安定した10月末、クムジュさんの入居している介護施設を訪ねた。翻訳者の安田千世さんとの二人旅だった。すこし認知症が進んでいるクムジュさんは、私の顔を不審なやつだとばかりにしげしげ眺める。10分ほど前に、安田さんが「わたしのチング(友だち)です」と紹介したばかりなのに。
「ハルモニ、長生きしてくださいね」千世さんが手を握りながら言う。彼女はハルモニと長いつきあいで、きちんと話をしたくて、韓国語をならった。ヨンセ大学に語学留学もして韓国語をみがいた。
「人はいつまで生きるかはわからないよ。死ぬときは死ぬし、生きるときは生きる んだ」
これが、クムジュさんの返事だった。様々な体験をして、たくさんの人が死んでいった。死の間際まで追い詰められた体験がクムジュさんの中にあった。日本の戦争が終わって、生き延びたと思ったら、朝鮮戦争が始まった。孤児を3人育てた。クムジュさんの本、元気なうちに届けたい。「そう、できたの」とちらっと見てくれるかもしれない。
梨の木舎 の本一覧