せめて「他山の石」になればとて
今年で創業7年目を迎えた当社にはお金にまつわるふたつのエポックがあった。
ひとつは、創業時に借りた500万円を完済したこと。そしてもうひとつは役員報酬をはじめて上げたこと。創業当初に設定した報酬は月額30万円で賞与はゼロ。依然として賞与はゼロのままだが、毎月の報酬を今期から月額35万円に引き上げた。
ちなみに創業後の刊行点数は3点→3点→2点→1点→0点→1点ときて、今年は3点を予定している。
とまあ、のっけから恥を忍んで赤裸々な数字を開陳したのはなぜかというと、意気揚々と独立したはずのひとりの編集者が、さまざまな紆余曲折を経て、ようやくスタート地点に戻ってくるまでに丸6年もかかったということを具体的にお伝えしたかったからだ。
以下は、7年目のリスタートに向けた僕自身の覚書のような告知文だと思ってお読みいただければ幸いです。
* * *
5年前に刊行した『小さな出版社のつくり方』
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という本のなかで、著者の永江朗さんはこんなことを書いていた。
いわく、「出版社の社員になるのは難しいけれども、出版社の社長になるのは簡単だ。自分で出版社をつくってしまえばいいのだから」と。
これは実際は、出版業界への就職を希望する学生に向けられたものなのだが、永江さんにこの企画の相談を持ち掛けた頃の僕は、今思えばまさにこの言葉だけを真に受けていた節があった。
光文社と大修館書店。いわゆる大手と老舗の経験しかなかった僕は、業界の仕組みや、その置かれた状況についてはよくわかっているつもりだったものの、悲しいかな、じつは永江さんの次の言葉はリアルに体感できていなかったのだ。
「本は誰でもつくれるし、出版社は誰にでもつくれるし、出版社は誰にでもはじめられる。出版で食べていくのは簡単ではないけれども、それは出版だけで食べていこうとするからだ」
そうなのだ。
気がつけば独立してからもう7年目を迎えているのだが、うちの会社は本の出版だけでは全然食べられていない(涙)。食べられていないどころか、僕程度の能力では、本をつくって売っていただけでは3年ももたずに会社はつぶれていたに違いない。
結果的に僕はフリーの編集者として雑誌のページをつくり、編集プロダクションとして大学や行政の印刷物を制作することで、会社の売上の多くを立てているわけで、この状態は独立当初の目論見からすれば必ずしも本意ではないけれど、良くも悪くもそれが現実だからしかたがない。
ひとり出版社というのは、「仕事じゃなくて、趣味みたいなものだよね」というような言われ方をすることもあって、そう言われるとちょっと釈然としないところはありつつも、「食べて」いくという観点からすれば僕の場合は出版は〝仕事未満〟であることは否めない。もちろん本を売ってお客さんからお金をもらっているわけだから、厳密にいえば趣味ではないわけなのだけれど……。
ああ。そう思うと、先の『小さな出版社のつくり方』の帯に、「出版社をつくるのはすごく楽しい!」なんてコピーをつけた自分はずいぶん暢気なものだったなぁ。
でも待てよ。ここで僕は一つの疑問にぶち当たる。
出版というのはまだ100年そこそこの産業に過ぎないが、そもそも本をつくって売るだけで「食べて」いけた時代というのは存在していたのだろうか?
僕が1997年に入社した光文社は雑誌で「食べて」いる会社だった。多少の誤解を恐れずにいえば、雑誌に入る広告で「食べて」いたはずだ。もちろんカッパブックスが「お札を刷っているようだ」といわれるくらい売れた時期もあったそうだし、「女性自身」や「週刊宝石」といった週刊誌が100万部売れていた時代もある。でも、少なくとも僕が知る限りでは、光文社は本をつくって売るだけで「食べて」いたわけではない。本をつくって売る以外に、雑誌広告という〝エンジン〟が積み込まれていた。
翻って、光文社を退職後、2005年の12月から勤めた大修館書店はどうだったろうか? 東洋文化に燦然と輝く「大漢和辞典」で知られるこの会社も、かつては教養書と呼ばれる一般向けの書籍がかなりの売上を占めていたそうだが、僕のいた頃は、高校生向けの学習辞典と検定教科書、それに大学テキストで「食べて」いた。おお、なんと。こちらもまた採用品という〝エンジン〟が会社をがっちり回していたではないか!
うーん。迂闊だった。自分が勤めていた2社のことしかわからないので一概には言えないけど、どうやら出版社が成り立つためには、じつは本をつくって売るだけではなく、なにか別の〝エンジン〟が必要なのではなかろうか。20年近くこの世界で生きてきて、こんなことも知らなかった自分が恨めしい。
甘かった。じつに甘かった。編集者としての僕の能力では、風を読んで大空を自在に飛び回るなんてことは夢のまた夢。実際には〝エンジン〟をフル回転させて推進力を得なければ、あっという間に会社は墜落の憂き目に遭ってしまうという現実が、なぜ当時の僕には見えていなかったのだろうか……。
いや、ほんとは見えていなかったわけじゃないんです。ただ、うっすらと見えてはいたけど、リアルな身体感覚として認識しておらず、自分ならそんな〝エンジン〟がなくても、きっとうまくやっていける! と思っていたんです。夢見る夢子ちゃん。
とはいえ、僕はぺこぱじゃないので時は戻せない。そこで僕はこう考えました。
ほかの版元はいったいどんな〝エンジン〟を積んでいるんだろう?
あるいは、〝エンジン〟なしで飛び続けるにはどんな工夫が必要なのだろう?
(売れる本をばんばんつくればいいという声はひとまず置いておいて)
2018年の年末。僕はまた永江さんにひとつの新しい企画を提案した。そう、今度は『小さな出版社のつづけ方』だ。
じつは永江さんは『小さな出版社のつくり方』のなかですでに、専業ではない、楕円形での働き方を提案していた。「これしかない、と道ひとすじに打ち込む姿は美しいかもしれないが、でも道が2本、3本あって、『これも、あれも』という生き方もいいではないか」と。
まもなく独立から4年目を迎えようとしていた僕には、まったくその通りだと感じられた。というよりも、編集者としての僕の能力では、残念ながらほかにやりようがないことを痛感していた。
よし。どうせやるなら、恥も外聞もかなぐり捨てて、気になるよその出版社の内情を徹底的に聞いてやろうじゃないか! それが「出版社をつくるのはすごく楽しい!」なんてコピーでけっこうな数の人たちを煽ってしまった責任だろう! という思いでスタートした『小さな出版社のつづけ方』は、のべ11社12人の方々にかなり突っ込んだ話を聞かせていただき、コロナ禍のいまだ過ぎやらぬこの秋、ようやく形になる予定だ。
多様性こそが出版の矜持だとするならば、この本で取材させていただいた会社の「つづけ方」は、まさに多様そのもの。いやほんとに色いろなやり方があるもんだ。
ぜひご期待ください。
* * *
じつは『小さな出版社のつくり方』を企画した当初から、個人的には、出版業界の内輪本には功罪両面があると思っていた。というか、今でも思っている。
なぜなら、本をつくり、売ることの面白さ、奥深さを読者に知ってもらうことで、出版業界のすそ野を広げることができれば、より多くのよい本がつくれる環境につながるとは思うが、一方で、本にまつわる世界の特殊性や精神性のようなものをあまり美化しすぎてしまえば、その先には多くの読者と乖離した〝タコつぼ化〟が待っているような気がするからだ。
ただ僕は、閉塞する業界の活性化のためには、多くの編集者や営業マンが独立して、もっと自由につくりたい本をつくっていくしかない、とも確信している。その意味では、『小さな出版社のつくり方』と『小さな出版社のつづけ方』はどちらも、まさにいま出版業界で働く人たちに向けた実用書としてつくったつもりだ。
さまざまなメディアが生まれ、なかばオワコン扱いされることもある「本」の世界を明るいものにするためにも、独立を考えている人たちの背中をこの2冊がそっと押してくれることを切に願っています。