もし、人生のある時に戻れるとしたら
「もし、人生のある時に戻れるとしたら、いつの頃に戻りますか?」と尋ねられたらいつに戻りますか。
突然の始まりで恐縮です。彩流社で営業している者です。
なぜこんな書き出しかといえば、要はいま文章が出てこなくて困っているからなのですが、僕は最初の問いをスフィンクスか、唯一神か、それともマッドサイエンティストかに尋ねられたら確実に「大学生のころ」と答えます。本なんか読まずに、もっと世の中に出て、他人とコミュニケーションをとるようにします。
僕の大学時代は、友人と呼べる人が二、三人いるかいないかで、バイトもしていない、サークルも入っていないで、とにかく真っ暗な青春時代を過ごしていました。それでいて承認欲求がガバガバなので、他人と比べてしか自分の評価を確立できない人間でした。なので、ひたすら他人より本を読んで、勉強することで他人を見下し、自分を確かめて、支えていました。ずっと「世の中なんか滅びちまえ」と思っていました。自分で世界を狭めて苦しんでいるのだから、間抜けとしか言いようがないんですけどね。
それでもそのときの読書体験が、今になって、出版業界の人はもちろん、まったく違う業界の人と話をしたときでも役に立つので、不思議なものです。
あれから10年近く経った今だって、中島敦の『かめれおん日記』(ちくま文庫『中島敦全集』、シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』、ハンナ・アレント『人間の条件』 (いずれもちくま学芸文庫)、マイケル・イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』(風行社) が一番好きな本として出てきますから。
かといって本がすばらしいとか、そういう話がしたいわけではありません。ちょっと説教くさいですし、自分にとって良いと思うものが、他人にとって良いものかどうかは微妙なところだと思いますし、なにより他の娯楽と比べて、本が抜きん出ているとも思いません。
ただ、自分が苦しんでいたときに、支えてくれた本や、その中で見つけた言葉(特にモンテ・クリスト伯の最後の台詞「そして、主が、人間に将来のことまでわかるようにさせてくださるであろうその日まで、人間の慧智はすべて次の言葉に尽きることをお忘れにならずに。待て、しかして希望せよ!」とマルクス・アウレリーウスの「善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて善い人間になったらどうだ。」はずっと大切にしています)に、僕自身は想い入れがあって、昔引いたマーカーをたまに眺めては、昔の自分を思い出して、共感したり、笑ったりしています。
そんなわけで僕が大学生に戻って、違う人生を歩んだとしても同じように本を読むのでしょう。そしてまた今後の人生で、苦しんだり、悩んだりしたときは、大学生のころよりはもう少しマシな方法で自分を支えていくつもりですけど、そのときもきっと手元にはマーカーの入った本があるのでしょう。やっぱり僕には本が必要みたいです。