徒歩20分圏内の京都 2023年8月23日
ひょんなことから京都に引っ越して2年が過ぎ、最初は自転車に乗っていたものの、いつしか徒歩が多くなった。
9時に出社し、メールとDiscordの確認。Slackは有料化してから使わなくなった。TwitterとInstagramを眺める。あとThreadsも。ヴァージル・アブローの『“複雑なタイトルをここに”』を知ったのは彼のInstagramだった。ハイデルベルグの印刷機の写真に添えられた、もうすぐ本が出るというコメントを目にし、その日に版権を問い合わせたことを思いだす。
Amazonのe託発注とトランスビューの日次データを確認。Amazonは1冊単位から発注があるので、在庫状況を見ながら配送料を抑えるためになるべくまとめて発送。Amazonで買い物したダンボール箱に本をつめて送るというエコシステム。梱包作業はもとより、発送にあたっての入力事項がこまかく、申し送る人がいない一人会社で急に仕事ができない事態が起きたらどうするのか心配になる。
そうするうち昼になり、保育園を併設している寺の境内を抜けて皿盛と中華そばの店へ。カートに乗っている園児たちは将来、本を買ってくれるだろうか。または、鴨を孵化させている寺の境内を抜けて昼のみ営業のうどん屋へ。子鴨はある程度成長すると、親と一緒に徒歩で鴨川に引っ越す。地元の人も付き添う。あるいは、黒猫2匹が住み着いているらしい寺の境内を抜け、入り組んだ路地にある中華と焼肉の店へ。抜け道を歩いていると、鷲田清一『京都の平熱』の「京都の町は孔だらけだ」という言葉を思いだす。
ときには足を延ばして京大の学生食堂へ。学生さんはどんな本を、どれくらいの頻度で買い、読んでいるのだろう。くすんだ色のチェックのシャツは高校時代から着ているのか。そういえばユニクロに置いてあるフリーマガジンは贅沢な取材と編集だが、持ち帰る人を見かけたことがない。たまたま目撃しないだけか、無料ならとりあえずいただいておくという習慣がなくなっているのか。駅や岡崎の美術館でチラシを手にする人は高齢者ばかりのような気もする。取り越し苦労、勘違いだったらごめんなさい。
祇園花月の脇の喫茶店で牛すじカレーとコーヒーのセット。出番の合間の芸人さん、舞妓さんとお母さん、地元の何かしらの人。原稿を読みながら、これでよしという瞬間がくる。河原町三条下る東側の喫茶店でミルクコーヒー、京都新聞とゲラ。三条小橋のたもとにある安藤忠雄設計の商業施設は所有者が変わってテナント募集中、ひとまず安心。
地下1階と2階の大型書店や京都には数少ない地下街にある書店を一通り見て回る。それぞれにクセのある個人書店。京都府立図書館では市販していない専門誌をめくってみる。小学校の廃校舎をリノベーションしたホテルの脇にある小型図書館は比較的高額なビジュアル書が多い。ウィングス京都の図書室は女性作家の作品や女性史、フェミニズム関連書が充実。今年の10月17日には京都髙島屋S.Cに店舗面積683坪の蔦屋書店が開業予定とのこと。本に関しては、京都市内はいまもなお恵まれた環境にある。
でも、書店はおろか「店」というものが(いまも)ない山村に生まれ育ったので、書店が存在しない市町村は2022年9月現在、全国で26.2%(ただし大手取次との取引がある店に限る)というニュースに接しても、うまく言い表すことのできない違和感が残る。グーグルマップで検索すると、実家からいちばん近い書店は車で最速21分のショッピングセンター内にある。ほかに、車で峠を越えて24分の場所に新刊と古書の個人書店ができているのを発見。
翻訳書の版権を問い合わせると一足早く取得されていて、残念とはいえ同じことを考えた人がいたと思うとほっとする。SkypeやZoomで打ち合わせ。とりあえずDeepLにかけた英語論文をざっと読む。原稿整理やInDesign。モリサワパスポートの契約が終了するのでモリサワフォントに切り替え。Nottaで文字起こし。テープレコーダーはもちろん音声データでも大変だった作業から、ようやく解放されたか。とはいえ文字起こしはさまざまな意味で勉強になるので、出版の仕事をはじめたばかりの人におすすめします。お世話になっております、社長様はいらっしゃいますでしょうか? 不在にしております。セールスの電話を切り、中小企業向けセミナーの案内ファクスを捨てる。
くたびれたので坂本龍一の『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を読んでいたら、癌手術後の譫妄状態で財津一郎が歌い踊るタケモトピアノのCMが延々ループし、発狂しそうになったという話。さぞつらかったろうが、『相棒』を見ていたのだろうか。そういえば、1981年の「新潮文庫の100冊」フェアのポスターは、中央に目を閉じた坂本龍一、左右に高橋幸宏と細野晴臣を連想させる後ろ姿の二人という写真で、糸井重里による「ひとりになったら本を読む。」というコピーが付されていた。新聞で知って応募ハガキを送り、自室に貼っていたことを思いだす。
「何を見ても何かを思いだす」というヘミングウェイの短編小説があり(原題は「I Guess Everything Reminds You of Something」)、表彰を受けた息子の小説がある作品の丸写しだったことを知った父親の苦く、やりきれない気持ちを描いた話だが、年齢のせいもあるのだろう、自分も仕事の合間に何を見ても何かを思いだす。無意識を耕しているといいたいところだが、とりとめがないだけかもしれない。
たとえば、Live PhotosというiPhoneの写真機能をうっかりオンにしていると、シャッターを押した前後の1.5秒を含んだ映像が記録される。動画から切り出した静止画。ならば、デジタル写真は「フィルム写真に似た何か」、いまだ名付けられていないイメージなのではないだろうか。優劣の問題ではない。1827年にニエプスが撮影した自宅の窓からの風景を写真の誕生とするなら、それは200年後に終わるという仮説を脳内で転がしてみる。自分が死んだら映画の歴史は終わるとジャン=リュック・ゴダールはうそぶいたが、写真はどうか。ゴダール、三宅一生、中井久夫、磯崎新、大江健三郎、坂本龍一。この1年のうちに世を去った人たちを思い、言葉にしがたい感慨を覚える。
ほかにも何かを思いだしたり、売上に一喜一憂したり、用紙代・印刷代の上昇と本の値付けを思案したり、この仕事をいつまで続けられるのかと不意に慄然としたりしながら、19時に退社。iPhoneのヘルスケアによれば、徒歩20分圏内をうろうろすると1日5000歩。ともあれ、売れても売れなくても本は残る。遺したいという意志とは関係なく、残ってしまう。そう考えると恐ろしくなるので、できるだけ地球と人様にお世話になりながらも迷惑をかけず、後悔のないようにと肝に銘じて生きている毎日です。