大御所作家の「遺稿」について思う。
NHKの大河ドラマにもなった「天地人」や『軍師の門』で知られる歴史作家、火坂雅志が亡くなった。58歳の若さだった。もしも絶筆があったとしたら、途中だとしても読みたいものだ。それがファンの偽りなき欲求だろう。かつて、48歳 で急逝したミステリー作家の北森鴻にも、鹿鳴館の建設に関わるミステリーに挑んでいた絶筆「暁英 贋説・鹿鳴館」があった。これは、未完のまま発行されたし、30枚まで書いたが34歳で逝去した伊藤計劃が「書きたかったであろう物語」を円城塔が書きついだ「屍者の帝国」は日本SF大賞をとった力作となった。北森鴻の場合、異端の民俗学者・蓮丈那智とその助手・内藤三國の活躍を書くシリーズの初長編「邪馬台」も未完成だったが、膨大な取材メモを故人の持ち物から見つけ出し「北森鴻ならこう書く」という推測のもとに、婚約者である浅野里沙子が完成させた。
聞いたところでは、山崎豊子の遺作となった「約束の海」も「続きを書かせてください」との申し出が遺族に殺到したようだ。 そうして、時折、大御所が亡くなると「続きを誰かが書くのだろうか」という話題があがるが、時代とともに作家も小粒となったのか、あまりそのような話題を聞かない。気になっているのが、山本兼一が死ぬ間際まで書いていた原稿の続きなのだが、これはもう、どこにも出ないようで、内容を想像するしかないような気がする。そういえば、夏目漱石も「明暗」を書いている途中で逝去、続きを水村 美苗が書いて話題を集めていた。水村はこの『續明暗』で、1990年芸術選奨新人賞を受賞。欧文が部分的に混在する横書きの『私小説 from left to right』で、1995年野間文芸新人賞を受賞。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を戦後日本を舞台に書き換えた『本格小説』で、2003年読売文学賞を受賞。2009年には『日本語が亡びるとき』で小林秀雄賞を受賞するという快進撃を演じた。要するに、「才能」は「才能」を呼び込む。今、才能を呼び込む「才人」の作家は、どれほど残っているのだろうか。
いま、唐突に亡くなったら「途中でも読みたい」という作家は、僕の中では3人ほどしか思いつかない。
この3人に失礼なので、その名前は誰に聞かれても公表しないつもりであるが、万が一にも亡くなった場合、誰かに続きを書いていただいてでも読みたいものだ。また、評論家の分野では、松本健一が昨年11月に亡くなった。この近代日本精神史、アジア文化論の分野は、いったい誰が引き継ぐのだろうかと気になる。さらに、中国文学の巨匠である陳舜臣もこの1月に逝去、日中の架け橋となりえる人材だっただけに、残念。彼らに絶筆があったとしても、引き継ぐのは難しいだろう。
そういえば、分野は違うが、死ぬ間際まで漫画を描いていたのが手塚治虫だ。
もしも若いときに徹夜を繰り返していなかったら、もっと生きて漫画を量産しただろうし、若手もたくさん育てただろう。彼の遺した画稿は、もはや高すぎてプライスがつけられないそうだ。かくして、「遺稿」について考えてきたが、今後とも、大御所が亡くなるたびに、遺稿がどうなるのか気になるところ。そして、引き継がれて「その後」を書くことになる作家は、その作家が恋人や親類、もしくは知人であったとしても、ともあれ、「とても幸せな人生」を送ったと言えるだろう。作家であるがゆえの、うらやむべきクリエイターとしての「役得」がそこにあり、いっぽうの読者は「作家の死後」も作家の息遣いを感じることができるのだから、これもまた、うらやましい限りである。