まっとうな哲学
わたしは電車のつり革をまともに触ることができない。
電車が揺れて、つかまる必要のあるときは、2本の指をつり革にちょこんと引っかける。
わたしは電車のシートに腰掛けるのをためらうときがある。
温められたシートは雑菌の温床だと聞いたことがある。
とくに、車両の端にある短いシートには腰掛けない。
なぜならあそこは、おおむね浮浪者の特等席だから。
わたしはパンツを一日に2枚以上、はく。
夏場の暑いときは、3度も4度もはき替える。
わたしは公衆トイレの手洗いの蛇口を触ることができない……。
わたしは潔癖なのだろうか。
ああ、わたしは潔癖なのか?
(いつからこうなってしまったんだろう?)
半年ほど前、電車の床に座る高校生を目にして、友だちとこういうやりとりをした。
「よく平気で床に座ることができるな」
「ああ、信じられないよ。汚い汚い」
「俺なんかシートにさえ座れないよ」
「え? ほんとう? 実はぼくも座ることができないんだよ」
「なんだ、おまえもか。ちなみに俺はプラットホームのベンチや、公園のベンチも駄目だ」
「ぼくもだよ!」
調べてみると、わたしのまわりには潔癖な人が何人もいた。
公衆浴場に入れない者。「だって刑務所みたいじゃん」。
吉野屋の牛丼を食べることができない人。
「お皿、きちんと洗ってないでしょ?」
電車シートに座れないくらいはまだ大丈夫なのだろう。
さて、「物」に対する潔癖は、きっと「人」に対する潔癖としても現れる。
人に対する潔癖というのは、ひとが他人の「内面」に関わることを避けることを言う。
若者のコミュニケーション能力の欠如はひろく言われているが、その欠如は、お互いの「表面」をなぞるだけの会話に始まる。
哲学者の東浩紀氏(30)は、「解離」という概念によって若者における「内面」の希薄さを説明している。映画を例にあげ、「千と千尋の神隠し」(宮崎駿監督)の主人公にも、「A.I.」(スピルバーグ監督)の主人公にも、「内面」を見出すことはできないと説く。彼ら主人公は、ある状況のなかで、「意思」において何かを選ぶということをしない。
そこでは、主体の「意(意思、内面)」というのはどこかに隠れてしまっている。
同じく哲学者の竹田青嗣氏(54)によると、私たちはコミュニケーションにおいて必ず“話している人の「意」に思いをめぐらす”。それは会話にとどまらず、ひとの文章を読む際にも言える。
竹田氏は、ひとの「内面」に立ち入ることのできない「潔癖の思想」に寄りそうこと、つまり主体不在の“差異の戯れ”に遊ぶだけが、文学や思想、あるいはもっとひろく生活の場における味わいをもたらすものではないと言っている(のかもしれない)。「立ち止まって深く考えること」をタブー化する(だって考える「内面」がないんだもん)ポストモダニズムから決別しようと言っている(のかもしれない)。
はー、ここまで書いてやっと新刊の宣伝ができる……。
『言語的思考へ』(竹田青嗣著・径書房刊)、大著です。
その含意するところは山のごとし。
春には、竹田青嗣氏と東浩紀氏の対談も行われます。