未知の読者からの手紙
ご承知のように出版社には、昔から読者の反応を知る手掛りの一つとして「読者カード」という方法があります。熱心な読者ほどそのカードを送ってくる傾向がある(と出版社は考える)ので、読者の反応を知る有力有意義なアンテナの一つであると言えるでしょう。ただ、そう言う私自身はどうかとなると、これまでそうしたことにはいたって不熱心で、出版社に対してカードを送った記憶が、申し訳ないけれども余り思い浮かびません。では著者に対しては? これも著者先生に対して読後感的なものを直接送り付けたという記憶は余りありません。
と思って古い記憶を探っていましたら、いや、ありましたね! 「あった」のです。そう言えば遥か昔のわが少年時代、作者にファンレター(?)を送ったことを急に思い出した次第です。私の小学生当時、集英社の雑誌『おもしろブック』は絢爛たる読み物や漫画によって私たちをいたく魅了していました。わが兄弟の間でもその人気は絶大で、劇画(当時は「絵物語」と呼ばれていたと思いますが)の両巨頭、山川惣治と小松崎茂によって評判を二分していました。
兄はもっぱら小松崎派を自任していましたが、私の方は断然山川派で、「少年王者」はもちろんのこと「虎の人」、「銀星」、「幽霊牧場」などの熱烈な読者でした。そして、その熱に浮かされてか、ある日作者宛に拙い手紙を送ったらしいのです。「らしい」というのは、もう「書いた」記憶自体が薄れているからですが、しかし年明け早々、その山川大先生から直筆の年賀状が田舎の小学生に届いたのですから、確かに私は手紙を送ったのです。山川氏らしい筆致で、奔馬が嘶く図柄が描かれたその年賀状を受け取った小学生がどれほど狂喜したか、想像してみて下さい。
ところで今回述べたいのはそういう昔話ではなく、その「読者からの手紙」ということについて、最近ある体験をしたからです。過日のこと、『内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせく――私の二十世紀』を読んだ未知の読者から一通のメールが編集部に届きました。どうやら年若い女性らしいその読者のメール内容は、同書に引用されている、ある「詩」の全文を知りたい、ということでした。そして、目下刊行中の『内村剛介著作集』にその全文は紹介されるか、されるとすればそれは第何巻であるか、といった趣旨の質問でありました。
さて、その詩とは「ステーピ(曠野)」の名で知られる「よみ人知らず」のロシア・フォークロアで、前記『インタビュー』ではスペースの関係でその一部しか引用できなかったものです。「ああ曠野、草の曠野/目もはるか 遠く 道がかすむ」とうたい出されるその詩は、雪の荒野に凍えて死にゆく無名の馭者が、いまわの際にも妻を思い、自分は今無念にも死んでゆくけれどもお前はどうか幸せに再婚してくれ、とうたう哀切極まりないもので、読む人の心を打ってやまないものです。
早速、私の方からその詩は前記『著作集』の第五巻「革命とフォークロア」に収録され、近く刊行される予定である旨を折り返し返信しましたところ、暫くしてその読者から礼状が封書で届きました。そして、丁寧なお礼の言葉とともに、「ステーピ」の詩を読みつつ涙があふれたことが書かれており、さらに末尾には「なぜ涙が流れたか分かりませんが、ひとつの迷いを減らせたようです。芯(信?)を手に入れた今、私は結婚を決意しました」とも書かれてありました。
この未知なる読者からの手紙を読みながら、私はあらためて「読書」という体験の不思議さに打たれました。「読む」とは、一見静謐で平穏な行為ですが、しかしときに天啓のような確信をもたらし、読者をして激しく行動せしめる勇気を与えます。「趣味は読書」などと言って安心していてはいけません。読書とは――まことに不穏過激な《魔》を秘めた行為でもあることを再認識した経験であったように思います。
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