職人の視座から世界を見る―—写真家・藤田洋三氏の仕事に寄せて
湯の街として知られる大分県別府市在住の写真家・藤田洋三さんと出会ったのは、かれこれ20年ほど前のこと。昨秋、小社から刊行した写真集『世間』に至るまで、これまで計5作に関わらせてもらった。
この藤田氏、幼少の頃から大工や左官といった職人の仕事が大好きという少年で、その普請現場をひねもす眺めていたという。
「私が小学生のころ、身近に四人の『しゃかんや』さんが住んでいた。その一人は(略)左官の親方だったのだろう、いつも大勢の職人さんが出入りしていたその家には、海草糊を炊く匂いが立ちこめていた」(『鏝絵〈こてえ〉放浪記』石風社刊より)
ここでなぜ「海草糊」が登場するのか疑問に思う方もおられるだろうが、この「糊」は土壁に混ぜる必須の素材だったのである。
ある時、その左官さんが「赤土を盛り上げて水をはったプールを作り、長い間それを放置した」。何のためにこんなことをするのか、小学生の藤田氏には皆目見当がつかない。だが、その疑問は春になって解ける。プールの赤土は壁に塗られるための素材で、じっくり時間をかけて土を寝かせる工程だったのだ。多感な藤田少年は、こうした無名の職人たちの仕事に、まるでこの世の真実を垣間見たような感動を覚えたという。
藤田氏が生まれ育った別府の街は、明治維新からほどなくして港湾や鉄道が登場、大正時代には国の巨費で水道施設や大学の研究施設がつくられ、中国大陸にも近い温泉付きの別荘地として、陸海軍や旧満洲国の病院や保養所、そしてこれらに付随した財閥や成金の別荘が競い合うように建てられていった。
その後、数度の戦争を経て終戦を迎えた別府だが、空爆を逃れたこれらの設備に注目した連合軍は、敗戦直後から別府に進駐。基地建設の特需景気と大陸からの引き揚げ組も加わり、1960年代あたりまでの別府は、まさに喧噪と人の熱気でむせ返るエネルギッシュな街だった。氏が幼い頃から親しんだ職人は、言わば近代の裏舞台としての歴史を刻んだこの街に吸い寄せられるようにして各地から流れ着いた人たちだったのである。
長じて高校生になった氏は、父の影響で写真を始める。相前後して地元新聞社に“坊や”(雑用のアルバイト)として潜り込み、別府の裏路地に出入りしては世界の見方を教わり、かたや記者の後ろにくっついては県内各地を駆け巡り、田舎の暮らしを撮っていたという。
印章彫りの店を営んでいた父の口癖は「世にハンコが不要な人間はいない。成金に軍人に流れ者、日本人は生まれてから死ぬまでみんなハンコがいる。みんな御名御璽一つで戦場に向かったんだ」というものだった。別府という街は、世情に長けた早熟な若者が育つには格好の環境だった。
「僕にとっての世間は温泉だったの。格好つけたって毛がはえたかどうかって話で、金持ちも貧乏もない。それが“温泉デモクラシー”」。
高校卒業後、カメラマンを目指して上京。写真専門学校の門を叩いたものの、学園紛争のあおりで3カ月後にはバリケード封鎖。あえなく故郷別府に舞い戻る。そこで氏が直面したのは、「地方の時代」というキャッチコピーとは裏腹に消え行く路地の暮らしや農山漁村の営みだった。当時はただ、「怒りとも呪いともつかない、言いようのない情念だけが胸中に渦巻いていた」(『世間』忘羊社刊より)。
そんなある日、写真家の先輩から大分県国東半島の洋上に浮かぶ姫島の撮影に誘われた藤田氏は、そこで人生を左右する体験をする。撮影したのは何の変哲もない村の婚礼風景写真
だったが、移り変わる「人・もの・暮らしを記録していくこそお前のライフワークだ」という“天の声”を聞いてしまったのだ。
相前後して、土蔵や民家の妻壁に漆喰で描かれた左官職人の「鏝絵」や土壁の美に打たれ、依頼された撮影業務の行き帰りを利用しながら、日本の家屋を構成する土、藁、石灰、糊といった素材や、左官や大工、目立て屋、桶屋、鍛冶屋、屋根師といったさまざまな職人の仕事をたどるようになった。
その後も氏は全国津々浦々、はては中国、アフリカまで、失われゆく職人の手技の痕跡を探して奔走。それぞれの旅の記録は『鏝絵放浪記』や『藁塚〈わらづか〉放浪記』『世間遺産放浪記』『世間遺産放浪記 俗世間編』(いずれも石風社刊)として結実するのだが、氏の仕事は常に、無名の職人や庶民の営みへの畏敬に裏打ちされている。
昨秋刊行した『世間』は、そんな藤田氏が40年以上にわたって撮り続けてきた「すっげーカッコいいおじちゃん、おばちゃんたち」のポートレイト集。
いつも飄々とした語り口ながら、彼の持つ視座が、アルティザン(職人)の仕事をアーティスト(芸術家)の下位に位置づけてきた近代への根底的な批評をはらんでいることを、私は知っている。まだ初刷も捌けないでいるが、これからも小社の代表作として息長く売っていきたいと思う。