ハルビン学院のこと
みなさんハルビン学院のことをご存知ですか。
正確には「満州国立大学哈爾濱(ハルビン)学院」といって1945(昭和20)年8月、終戦とともに25年間で閉校になった学校です。
終戦時、渋谷三郎学院長は残っていた何名かの学生を集め学院の閉校を宣言して校旗に火を点じ燃やします。そのとき居合わせた生徒の一人が灰となった校旗の房の部分の残燼を思わず拾い上げ密かに保管し、後日、帰国のとき下着のお守り袋に秘めて持ち帰ります。校旗を燃やした翌日渋谷院長夫妻は校内で自決、遺体を学生が校庭に埋葬するという悲惨な終焉をむかえました。
終戦後、満州にいた多くの学院の卒業生や現役生はロシア語が出来るというだけで、スパイとして疑われ極寒のソ連、ラーゲリ(強制収容所)での抑留生活を強いられ、現地で亡くなったり、十年以上ものラーゲリ生活を克服して帰国したりと、苦難をせおっての生活を送ることとなりました。
日本に早く帰国できた卒業生たちは、終戦後の混乱にもめげず連絡をとり合い同窓会をつくります。チリジリになった人たちが徐々に集まりはじめ、ついにほぼ全員の卒業生はもちろん、教職員や特修科や専攻科を含めた名簿がつくられ、現在にいたっています。
21世紀を迎えるにあたり、卒業生が高齢になり同窓会活動が不可能になるのを予期し、誇りある「ハルビン学院」の名を後世にのこすべく基金を集めました。上智大学ロシア語学科に基金を寄付、上智大学では「ハルビン学院顕彰基金」として、毎年「ロシア研究シンポジウム」が開かれ、「奨学金」も学生に授与されて若きロシア研究者が育っており、ロシア研究に寄与しています。
また東京多摩にある高尾霊園には「ハルビン学院記念碑」を建立しました。そこにはカロート(地下収納室)がつくられ、卒業生の「分骨」や「遺品」、文頭に記した「校旗の残燼」や「学院史」その他思い出の品などが収納されました。その記念碑の台座には中国ハルビン市に残っていた校舎のレンガを許可を得て持ち帰り記念碑の台座に埋め込み、当時の学び舎をイメージしたエンタシスの列柱も作られています。
閉校前の学院の生活は、全寮制だったためか家族的でリベラルな校風だったので、楽しい学生生活を過ごしたようです。高齢になりいずれあの世にいっても、学院記念碑のカロートに分骨や遺品を収納して、また青春時代を送ろうとしています。
現在も毎年4月16日には高尾霊園に全国から高齢の同窓生、遺族が参集し記念碑祭を行い、ぬくもりある集会を続けています。今年も170名余の関係者が集まりました。
小社発行『ラーゲリのフランス人』の著者ジャック・ロッシ氏(故人、92歳)も体制に抵抗しながら24年間もラーゲリ生活を経験した一人でした。そのロッシ氏がラーゲリを転々と移動させられているうち、日本人の中に放りこまれたときに将来の親友となる内藤操氏(ペンネーム内村剛介氏)と出会うのです。内村剛介氏はハルビン学院21期生でやはり体制への抵抗をしつつ11年のラーゲリ生活を送ったのでした。生還後、ロッシ氏は来日し内村剛介氏宅に1年近く寄寓し、内村氏と相談しながらラーゲリの本質を暴く『ラーゲリ註解事典』の原稿つくりをし、ついにフランスで発行にこぎつけたのでした(邦訳版は小社刊)。
時代の波に揺さぶられた悲運のハルビン学院については、恵雅堂出版のホームページに詳しく載っています。一人でも多くの若い人に知っていただきたいので、ぜひご覧になってください。問い合わせなどどんなことでも恵雅堂出版にお寄せください。(社内に同窓会事務局「ハルビン学院連絡所」があります)