索引という起爆装置
さくいん【索引】 書物の中の字句や事項を一定の順序に配列して、その所在をたやすく探し出すための目録。インデックス。「人名―」「事項―」(『広辞苑』第七版)
大部の専門書の編集作業。著者と編集者の間での何往復ものゲラのやりとりが終わり、やっと本文が校了、もうクタクタ、ゲラなんて見たくない……、というところから始まるのが、索引づくりです。見たくないゲラをもう一度、じゃなくて何度も何度も繰り返し見る作業が始まります。
さて、本の索引は誰がつくっているのでしょうか。
料理本などの実用書であれば、おそらく編集サイドが作成しているケースが大半だと思います。それに対して専門書は、著者が主体となって作成することが多いのではないでしょうか。大学の先生であれば、まずは自分で索引の見出しカードを作り、それをもとに、院生やゼミ生が人力でページを拾った(当然すべて目視チェック!)という昔話を聞いたことがあります。もちろん現在はテキストデータがあるわけなので、検索でページが拾えますし、組版ソフトには索引作成の機能もついています。七月社の場合は、著者に索引の見出し語のリストを作ってもらい、それをコンピューターで拾ってゲラにし、著者・編集者の共同作業で整えていくというプロセスをとっています。
私が編集の仕事についた頃には、索引づくりの教科書やそれに類するものはありませんでした(2019年に、藤田節子『本の索引の作り方』が刊行され、スタンダードになりつつあります。索引をつくる人は、編集者も著者も必読!)。誰かに「索引の作り方」を教わったわけでもなく、類書の索引ページを参考にし、ときに年長の著者が入れたゲラへの赤字に教わりながら、手探りで索引を作ってきました。
と、まあ、こんな苦労話を書いていると、「索引なんかなくても、電子書籍で検索すればいいじゃん」と言われてしまいそうです。でも、全文検索では駄目なのです。
その理由のひとつは、ノイズが多すぎること。私は、編集している本に「関」さんが出てくると思わず舌打ちしてしまいます。手元に電子書籍リーダーがある方は、この人名で検索してみてください。人名は初出こそフルネームで記載してあると思いますが、以降は姓だけでの登場が多いでしょう。「関によれば……」なんて感じで。これを検索するとどうなるのか。「~に関して」「関係」「関連」etc……、論文は人ではない「関」さんのオンパレードです。これらはすべて人力で選別していかねばなりません。
東さんに西さん、谷さんに森さんに岸さん……、民俗学の本を多く出す七月社には厳しい名前ばかり。奄美には中(あたり)さんなんて苗字の人までいます。原田さんと原さん、岡田さんと岡さん、小林さんと林さんなんかの組み合わせもたまりません。この類の重複は人名に限らず大量にあります。頼むからみんなして「夏目漱石」っていうタイトルで本を書かないでくれ。
また、本の中でキーになる用語はどうしても頻出します。網羅的に拾うとページ数が多くなりすぎて実用的ではない、けれどもその語は索引項目としては必須。そうなると、重要なページのみを限定して拾わざるをえません。それができるのは人間だけ、しかもその本の内容を熟知している著者(と、ときに担当編集者)だけです。
そして、全文検索だと駄目なもうひとつの理由、それは索引そのものの存在です。
索引としてどんな用語が立てられているか。何が落とされ、何が拾われているか。どの語がどのくらいのボリュームで掲載されているのか。それらは、本の方向性やスタンスを雄弁に物語ります。あるジャンルの中で、この本がどのような立ち位置にあるのかを、とても深いレベルで(ときに本文よりもあけすけに)教えてくれます(そんなことを考えて、七月社の本は索引ページのPDFをウェブで公開しています)。
仮に300ページの本があったとして、20ページの索引がついているものと、索引がそもそもないものとでは、その本が目指している方向は明らかに違うはず(どちらがよいというわけではなく、です)。
どこかで聞いた話ですが、研究室にある本を指して「全部読んでいるんですか?」と質問する学生に、先生が「自分にとってはこれら全部で一冊の事典のようなもの。事典は全部読まないでしょ」と答えたそうです。購入し、全体をサラッと見て書棚にしまう。そして、長い年月を経たある日、必要があってその本を再び手にとる。最初に開くページはきっと索引です。
私は専門書を作っていて、梶井基次郎の「檸檬」を思い出すことがときどきあります。檸檬ではなく本という爆弾を、誰かの書棚にそっと差していくという夢想。そして、その起爆装置は、索引です。
数百程度の刷部数の専門書。そこにピックアップされた何百という索引見出し。悲しいかな、その語群の大半は誰にも引かれることはないでしょう。でもたまたま引かれたある一語が、次の研究につながっていくかもしれない。その微かな希望に支えられて、これまでたくさんの索引が作られてきたように思います。だから、そのバトンをつなぐためにも、できるだけ丁寧に、しっかりとした索引を作りたい。
でも、索引が作れるのって本文が校了した後なんです。もう訂正は入りません、行はズレません、とならないと当然索引は作れない。そして、そのときにはもう往々にして刊行期限が迫っているわけです。高邁な精神はどこへやら、また夜を明かして、微かな希望と大きな妥協のあわいで、大急ぎで索引をつくるのでした。