本を跨ぐ
子供の頃、本や新聞を踏んづけたり跨いだりしたとき、親によく叱られた。以来、書物が床に置いてあるときには注意して歩く癖がついてしまった。
どうしても跨がざるをえないときには、戒めに頭を軽くたたいてから跨ぐ。他人が足で本をどかしたりすると、つい目がいってしまう。
親にしても、爪を切るときや戸外で敷くものがないときには新聞を広げていたのだから、書物そのものをないがしろにしてはならないと教えたかったわけではなかろう。何かが書かれているもの、知識を与えてくれるものには敬意を払いなさいよ、程度の意味で叱っていたのだと思う。
しかし、私の体に染みついてしまったのは、そのような書物に関する約束事、「本=そこに書かれていること、そこに詰まっている知識」という制度に基づいた書物の尊重と同時に、「「本」と「足」を接近させてはならない」という習慣だった。あえて本を踏みつけにする人などいないだろうけれど、それが私と本の距離を象徴していたように思う。
現在、出版に関わって生活するようになって、もうすぐ二年になる。とはいえどの業務もまだ中途半端で、会社にとっては全く戦力になっていない。
零細版元はどこも似たり寄ったりだが、小社も事務所の半分が自社の商品の倉庫となっていて、棚から在庫が溢れ出し、結束(本の束)が何本かの塔を形成し、場合によっては「足の踏み場もなくなる」。そこが私の主な仕事場だ。
毎週の返品日には、改装が必要な返本が玄関を埋め尽くす。絞り込んだ初版部数、目一杯の(といっても微々たる)新刊搬入が基本なので、いずれ返本の山となるとはいえ、出たばかりの新刊の在庫に余裕はなく、社外倉庫での改装の時間を短縮すべく(もちろん改装代を少しでも浮かせるべく)、上製本の新刊は社長も加わり社内(といっても3人)で改装する。圧倒的なスピードでカバーとオビをはぎ取る社長の瞳には、「なぜ帰ってきたのだ!なぜ!?」とサディスティックな炎がゆらめいているようにも見えるが、一方でそのリズミカルな作業を楽しんでいるようにも見える。またたく間に(ほとんど社長の手によって)改装が完了してしまう。その本をいっぱいになった書架に運び、ねじ込んでいるときにふと気づく。
「いま、そこの結束を跨がなかったか?」
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当日誌の第34回、第三書館の北川さんは書いている。
「・・・本というメディアに対する抜きがたい固定観念というか読書文化への“信仰心”のようなもの。・・・「誰かがまだ本を読んでるに違いない」という信仰があまりにひろく浸透していること驚くばかりだが、一方でそれが本というメディアの威信をかろうじて維持しているのではあるまいか。ほんとうに「本なんて視聴率にしたら0.005%もあれば御の字の世界だ」ということがバレてしまい常識化した日こそが恐ろしい。」
あるいは第141回、大村書店の萩原さん。読書を無前提に肯定する読書調査を受けて、
「・・・本来、本との関わり方はもっと自由であるべきである。必ずしも、最初から読む必要もない。本を読まなくても良い。感動しなくてもよい。本が嫌いでもよい。最も大切なのは、本との誠実な関係を築くことにある。読書とは何か。その行為自体を問うことなしに、統計的に行われている読書調査は全く意味をなさない。」
本は、著者の思考と紙とインクだけではなく、様々な「信仰」や社会的な期待によって成立している。それは本というメディアが長い歴史を経て獲得してきた信頼、既得権であると同時に足枷でもある。出版に携わるプロたちは、その信仰や期待の周囲で、一方でそれが相対化されないことを祈りつつ活用し、もう一方でそれとは別のありかた、人と本との関わりが持つ(かもしれない)多様性を開放できないかと模索する。本に対して、さらに本の動きに対して、自在に密着したり、俯瞰したりしてその位置を測定し、実際に動かす。
そんな超人達の仲間に入れるのだろうか? という拭いがたい不安を抱えながら雑用漬けの日々を送っていた。
でも、本の動きに翻弄されているうちに、本との関わり方がいつの間にか変わってきたらしい。「跨げるようになって」気づいたのは、本という仕組みの奥深さだったりする。本への信仰に囚われた、本とのホントの関係に固執する神経質な一読者の感覚から、少しだけ距離を取ることが出来るようになった(のか?)。二年近くかけて学んだことがそれだけなのかとも思うが、根本的にはその程度だと思う。しかし、この感覚にはいつでも還ってこられるだろう。出版それ自体を、どんな雑用も含めて愉しみながら暮らしていける準備が、ようやく整ったという所。しかしこの仕事にこれからもへばりついていけるかどうかは、その本との距離によってできた空間をどう活用できるかにかかっている。
跨いでしまった本とその著者の方、そんな本を売るのかよ! とご立腹の読者の皆様、本当に申し訳ありません(踏みつけたわけではなく、跨いだだけですんで)。この一歩を大きな一歩として、精進して参りますのでどうかご容赦を・・・。