春の憂鬱
3月はわが社の本の常備入換月だ。先々週に怒濤のごとく出ていった本が書店に到着すると、前年度分の常備品の返品が濁流となって戻ってくる。常備の本は年間を通 じて売れれば補充されるのが原則だから、たくさん戻ってくるのは問題ない。問題なのは、戻ってくる本の状態だ。
「返品の濁流」と書いたのはダテではない。カバー・オビの破れは良いとしても、並装の表紙は折れ、上製のボールはへこみ、本文にまで深く瑕がはいって戻ってくる。こういった本は、いくら改装したところで再商品化することはできず、断截せざるをえない。ウチでは返品は業務委託している倉庫にされるから、伝票の流れだけでは返品の状態はわからない。5月の決算棚卸しのさいに変わり果てた自社本の姿に暗然とさせられるが、それがどこから返ってきたものかは間接的な証拠でしかわからないのが常である。乱暴な結束・梱包によって傷んだ姿は、出荷時の面 影もない。
返品の状態のヒドさは常備品にかぎらない。そして入帳条件についての取り決めもなしくずしにされ、注文品はずっと昔の担当者の「返品了解」がついて戻ってくるし、委託品は期限が切れたあとものべつ幕なしに返される。そのなかにはおそろしく古い、ボロボロになった本もある。それらが公然と入り正味や分高正味の書かれた伝票で送られてくる。
日販の橋昌利常務は3月15日付の「新文化」インタビュー記事で、注文などの買切り品が実質的に「ほとんど返品条件付き」で「委託と同様」だと指摘している。たしかに現実そうなりつつあるが、これはけっして版元が了承している「商習慣」などではない。
書店の経営が、現在の取引条件を額面通りに守っていては立ち行かないという問題は、入り正味の引き下げなどの抜本的な解決がなされるべきであって、「売れない本は随時返品すればいい、しかも仕入れ時と同正味で」などというのは商行為の本道にもとる。そうやって出版物の贋金化が加速して「書名と定価さえ読めればどんな状態でも返品できる」となっていることが、流通 段階での本の扱いのモラルハザードにつながっている。
いまのように既刊本の注文流通にまで「返品・改装・断截」のリスクがつきまとう状況では、かつかつの利益で重版している本は順次絶版にせざるをえなくなってしまう。私にとって、春は、その当落ライン上にある本を重版するか否かの決断をせまられる、憂鬱な季節だ。