拮抗する日常と非日常の観念世界持続する緊張で漲った小説を 求めて
「立花隆の無知蒙昧を衝く」(佐藤進著、社会評論社、2000年10月初版) に続いて箒木蓬生の「臓器農場」(新潮社、文庫)について書こうと思ったが 手元に資料が何もない。記憶だけでものを言うのは如何なものかと思うので真砂 図書館から幾冊かの本を借りてきたが肝心の「臓器農場」はなかった。
箒木逢生 の作品は、69年の東大安田講堂の攻防戦を通して巨大マスコミの闇の構造を抉 った「十二年目の映像」以来、「白い夏の墓標」や「カシスの舞」、はじめて賞 をもらった「三たびの海峡」、山本周五郎賞の「閉鎖病棟」や憲兵だった父親が 戦犯として追及される様を描いた「逃亡」など初期の作品は殆ど読んできたが、 初期の作品は奥付を見ると殆どが初版どまりで、よくもまあこの成績で次から次 へと新刊書を出せるなあ、と新潮社の編集部に頭が下がったものである。
箒木蓬生は東大仏文からTBSへ入るが、その後九大医学部に入り精神科医となって文学作品を発表するが、精神科医としての論文はまだ見たことがない。九大の連中に一度聞いたことがあるが、多忙な精神科医がどうしてあれほどの文学作品を書けるのか分からないといっていた。確かに凄まじいエネルギーである。箒木蓬生の作品の凄さは、最初から最後まで作者の緊張感が持続していることである。数ヶ月ならともかく数年間にわたってリアルな日常生活とフィクションの世界との拮抗する緊張感の持続は並大抵なことではない。これは精神科医として日常的に患者と向き合うことから患者の心の奥底に内包された凄まじいエネルギーに作者は触発されているのではないかと思う。長編ものはかなりの作家でも緊張感が続かない。村上春樹「ノルウェイの森」でも、船戸与一「砂のクロニクル」にしても、辻邦生「西行花伝」にしても息切れを感じてしまう。精神科医という仕事は、治療者自身が患者の内面の世界と向かい合い互いに共感できるような<共鳴する身体=心的構造>を共有できる人ほど治療がうまいと言われる。しかしこの緊張感も並大抵ではない。患者の内面の世界と一体化してしまえば、治療者としては失格である。そのギリギリのところで治療するしかないのが精神科医ではないかと思う。
この精神科医の物語を小社から刊行する予定である。「深淵から〈精神科医物語1〉」を4月に、「深淵へ〈精神科医物語2〉」を5月に刊行する 予定である。久々にエネルギーの充満した原稿を手にして一気に読んでみた。 「深淵から」より「深淵へ」の方が凄まじい。精神科医ならではの緊張感に満ち た表現である。乞うご期待。次回は宮崎学「突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年」(上下巻)とその周辺を取り上げたみたいと思う。