新春のご挨拶をもうしあげます
https://kodachino.co.jp/news/newyear-2021
今年の抱負が三つ浮かびました。
コロナな空気に どこか「自分」が見えなくなった感覚あって
昨秋あたりからネットな「情報」ばかり見てしまう自覚症状もあって
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1. 毎晩おしまいの時間に《枕元日誌》をつける こと。
2. 朝一番にモバイルでニュースとかメールを見ない こと。
3. 仕事場に入るまでに昨晩の日誌を眺めて“考えなおす” こと。
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こんな三つの抱負を2021年の元旦に浮かべました
ということで本日 一月の終わりにあたって
三が日の《枕元日誌》を繰ります
★
1月2日の晩
お師匠さんに、お年賀の電話を差し上げました。
ひょんなことから、師匠の大先生の後任フルート奏者に話が及びました。その人気者は「非のつけようがない技量と表現力を具えた希代のスーパースター」なのです。なのですが、わたしは、これまで一度も彼の演奏に胸を鷲づかみにされたことがないのです。そこのところを漏らしたところ、電話の向こうから師匠は、遠い記憶を手繰り寄せるように、こんな言葉をぽつんと授けてくださいました。
『あの頃(登竜門のコンクールで19歳にして断トツ1位を獲得した1989年)から、彼は“標準語をもたない”人だったね』… と。
そのうえで『頭がよくて、AIみたいに進化してきたね』… とも。
――「標準語をもたない? 彼の笛こそ標準を突き詰めたAIなのでは??」
という戸惑いを、わたしは1月2日の“日誌”にメモしたのでした。
★★
明けて1月3日の朝
前晩の枕元日誌を眺めて“考えなおし”ました。
――「標準というのは、誰もが目指したり誰もが付き従ったりする唯一無二のものではなくて、my standardとyour standardが触れあうなかで、染みたり撥ねたりしながら変容していくものなのかも…」と。
近頃のAIアナウンサーの優秀さには目を瞠ります。この半年でどんどん進化してきたのを痛感します。この加速感から想像するに、AIさんにはきっと「稽古」が要らないのだと思うのです。いちいち「師匠」と触れあっていては進化に無駄が生じるのでしょう。
ひるがえって、呻吟しながら師匠からstandardを「叩き込」まれた自身の体験を、心ひりひりと思い出します。そして、進化はまったく果たせませんでしたが、でもこうして30年経った今も、師匠の怒声(に伴う密接距離からの飛沫)に込められた言葉を反芻しては、自分なりの“標準さがし”をあぁだこぅだと愉しめていることに、味わいを感じます。
★★★
その日の午後
思いついて、モーツァルトの交響曲第1番をかけてみました。ミューズはどのように宿って進化するんだろ? と興味が湧いて……。そうしたところ、初めて耳にした第一声に、あ然としました。神童(8歳)の姿が、幾重もの「師匠」の蔭に隠れて見えてこないのです。天賦の才が沢山のstandardのなかに生まれ落ちる様を眼前にした思いでした。
興にのって夕方まで、全交響曲を聴き進めました。旅先での出会いのなかで、モーツァルトなる標準は改訂され変容していきます。そして最後の第41番(35歳)の最終楽章に、第1番での標準型「ド~レ~ファ~ミ~」を遺して(ジュピター音型)、この世を去っていったのでした。
思うに、標準と標準の響きあいで醸成されていく世界は、音楽だけではないのでしょう。数学も哲学も、俳句も落語も、武道も芸能も……。いまの時代、「正しさ/良さ」や「大きさ/強さ」が、リモートにつながったネットワークのなかで、オートマティックに“純化”しながら、速く・遠くへ伝わることが求められます。
――それは大切だけれど、そこで置き去りにされがちなのは、或る人の標準語とまた或る人の標準語が擦れあったり混じりあったりしながら“ひと味ちがう”標準語へと“深化”すること、なのかも……。
★★★★
次のような走り書きで、三が日の日誌は終わりました。
――「煎じ詰めると、わたしたちが携わっている出版には、情報の質や量を追い求めるところではなく、語り手(著者)と聴き手(読者)おのおのの標準語が触れあう時間(場)を提供するところに、味があるのでは?」と……。
今年の正月は、久々に電話という“声”の交錯する場での緊迫した半時間、そのむかし腕っぷしの強かった師匠から「標準語」にまつわって閑かに教わった、どきどきするお正月でした。
――みなさまにとって希望の年となりますように!