出版社のジャンルを絞ることにまつわるエトセトラ
小鳥遊書房といっても、できたての出版社で、しかも読み方が分からず、親しい著者の先生方にも親しみを込めて(?)「ことりゆう書房」と呼ばれるぐらいですが、「タカナシ書房」と読みます。
ご存知の方も多いと思いますが、小鳥は鷹(タカ)に怯えて、鷹がいるときには隠れています。でも、鷹(タカ)がいなくなる(ナシ)と、安心して遊ぶ様子から、「小鳥遊」で「タカナシ」と読みます。出版界で鷹と呼べる大手出版社の陰に隠れて、怯えるように立ち上げた小鳥遊書房は、英米文学の研究書を大きな柱にした出版社です。文学など一番売れないジャンルともいわれているのに、なぜ、今、文学なのか、そんなことを少しだけ、弊社の紹介も兼ねて囀(さえず)ってみたいと思います。
(なお、小鳥遊書房のスタッフ二名がなぜ古巣の彩流社から独立して出版社を立ち上げるに至ったかは、一切省略します…)
【いろいろなジャンルをやらせていただいて……】
大学の英米文学科を卒業し、もう少し勉強をしたかった僕は、大学院の修士課程までは進みましたが、自分の才能のなさに限界を感じ、研究するよりも本作りを目指そうと人生の舵を切りました(まあ、ありがちな展開ですね…笑)。高校の非常勤講師をしながら某美術批評の超学術書の版元で一年間お世話になり、出版界のイロハのイを知った僕は、なにを思ったかとある編集プロダクションに入ります。主に、某大手出版社の週刊分冊百科を13年間作り続けたのです。家に帰れない日が週に五日(!)あるなどざらで、青春のある時期を雑誌作りに捧げたのですが、右も左を分からないまま突っ走った10年でした(お陰で大手出版社の企画のハードルの高さなどは、それなりに実感できました)。主に美術の雑誌が多く、今ある美術の何となくの知識もこのときの経験のお陰です。その他には、映画や世界、そして日本の文化地理大系を浅く広く、仕事をしながら学ばせてもらいました。
苦しみながらも毎週毎週自分の関わった雑誌があらゆる書店に平積みされていくのは、とても心地よく、辛くとも充実した日々でした。しかし、10年も経つと、教えられる立場から後輩に指導する立場になり、なぜか、このまま人生が終わっていいのかな、と自問自答するようになり、数年間、後輩に教えられるだけの事を教えるといういわゆる「お礼奉公」をしながら、文学研究書をつくる道を探していました。出版界に顔の広いとある方に相談したところ、幾つかの出版社を紹介され、そのうちの一社が、私がお世話になった彩流社。卒論をD.H.ロレンスで書いた僕にとってはよく知った社名でした。外国文学の研究書や作品も大きな柱の一つにしていた彩流社では多くの先輩や仲間に恵まれて、水を得た魚のように本作りをさせて頂きました。大学院生だったときに顔を出して以来の日本英文学会にも出版社として参加させて頂くなど、有意義な日々でした。
また、彩流社は様々なジャンルの書籍を刊行していたため、英米文学に限らず、いろいろなジャンルの本を作ることにもなります。いくら作るのが好きでも、文学研究書は実売にはなかなか直結することが難しく、営業部にはいつも渋い顔をされていました、かもしれません(笑)。時には持ち込まれた企画を社内で頼まれて作る事もありました。でも、結果的には会社の方針でいろいろと挑戦させていただいたことはとてもありがたかった。アメリカの歴史、映画批評、社会思想史、社会問題、美術書、写真集や児童書、実用書、サブカルなどなど幅広くやらせていただきました。その過程でできたご縁を大切に、そして、自分が関わった書籍は我が子のようにどの本も均等に可愛いという思いは今も変わりません。
そして、いざ、後輩と二人で出版社を立ち上げることになったのです。
(物流などをどうするか、経理面をどうするかなど、もちろん、会社を立ち上げる訳ですから、いろいろとあり、弊社なりの方針はありますが、そうした会社の運営面については、あえて触れません…)
【出版社のカラーをはっきりさせる】
本作りが何よりも好きな僕は、本さえ作っていれば幸せというアホな人間なのですが、何らかの暴露本やヘイト本などは、いくら売れるよと囁かれても作る気はありません。
さて、新しい出版社を立ち上げるためには、何を柱にするのかが大切です。これは出版社の方向性ともなります。どんなジャンルにも果敢にチャレンジ! などと標榜したところで、会社に何の色も出せませんね。大手指向の場合、売れるマーケットを狙ってどんなジャンルにも手を出しがちなのですが、ジャンルがバラバラだとそれぞれにそれぞれの売り方をしなければならないので、人的な数で無理があるし、そもそも、そのジャンルを得意とする編集者を何人も抱えることは現実的に難しいと思います。どんなジャンルもやりますというと、なぜかとても間口が広くて良心的な出版社のようにも思えるのですが、要は特色がないということになります。それぞれ自分の得意なジャンルのある編集者が何人もいて営業部員もいれば別ですが、編集者が二名しかいない我が社では、どんなジャンルにも手を出す余裕もないし、現実的ではありません。
従って、編集者が得意とするジャンルを固めるということがもっとも大切なことだと思います。
僕は一応、英米文学科出身で、雑誌の編集時の多少の蓄積があるので美術や映画など、また、そこから派生するものは他のジャンルよりは多少明るいほうであり、一緒に会社を始めた後輩は、演劇指向が強く、ジャンルとしては演劇などの舞台芸術、また広くは文学を得意としているため、大きな柱を決めました。
◎ 柱1=文学の研究書(とくに英米文学中心、カナダなど周辺も含む。ときには日本も)
◎ 柱2=文学作品
◎ 柱3=そこから派生しての映画、舞台、演劇(広くは文学と捉える)
◎ 柱4=英米文学から派生して他国の文学(評論・作品)
◎ 柱5=英米文学から派生して周辺の歴史(アメリカ史やカナダ史など)
◎ 柱6=美術、演劇、映画などの芸術(広くは文学と捉える)
◎ 柱7=文学の香りがすると(独断で)判断したもの
◎ 柱8=人文科学とまとめられるもの…。
なお、結果的には、一見、それは文学ではないのでは? と言われるものでも、我々のなかでは「文学」をやっているつもりです(笑)。
【そもそも学術書? 一般書?】
ジャンルの話につきもので、どのような層に向けるか、そもそも、学術書なのか一般書なのか、またはその概念自体あまり意味がないのか、ということがあります。学術書といえば、これぞ研究書というような地味な装幀で僕も学生時代に教員にテキストとして買わされた苦い思い出がありますが(笑)、学術書といっても、これぞ教科書、といったものを目指しているわけではありません。内容的には学術的であり、研究者を読者層のボリュームゾーンと捉えつつも、研究者以外にも手を取って頂ける装幀や作り方、タイトルの付け方があると思います。その逆に、一般書だから註は不要、参考文献は不要、ということも真ではないと思います。上製本、並製本を使い分けながら、コアになる読者層を意識しながら本作りをする必要があると思います。まあ、弊社の場合は、学術書、一般書を半々の割合で作っていくと分かりやすく言語化しているのですが、文学の研究書だからといって、「これぞ学術書でござい」のように作る必要もなく、一般書のように作ってもいいわけで、本当のことをいえば、この学術書/一般書というジャンルの区分けも意味がないことだと思っています。あとは著者とともに、どういった読者層に向けるかで註の付け方、図版の入れ方、タイトルの付け方などもあると思います。デザインなどの造本一つで、読者のイメージは全然変わりますので、この辺りはつねに意識しなければなりません。
【文学部不要論の逆境のなか】
書籍にはいろいろなジャンルがありますが、出版不況といわれている昨今、大型店舗でも徐々に棚が縮小されていき、小さな書店などではそもそもそのジャンルの棚すらないという外国文学の研究書。一般には、文芸の棚のなかの「外国文学評論」という区分けがされている書店が多いと思いますが、この縮小の一途をたどるジャンルから撤退、あるいは縮小している出版社も多いようです。かつてより良質な文学系の学術研究書を出しているある出版社は、CD付きの語学書に傾斜し研究書の企画が社内でも通りづらいとも聞きますし、老舗のある出版社などは文学研究書よりも、スポーツやビジネス書など売れそうな要素が強いと思われがちなジャンルにも手を広げているようです。書店の棚も、小さくなり、そもそも世の中が文学不要論に傾き、文学部もどんどん国際ナンチャラとかなんとか学部に改変され、文学なんて、ましてや文学研究書なんて作りづらいし、売りづらいという流れがあります。実際に僕が独立する話をした折、某大学の著名な文学系の先生が「これから出版社始めるのに文学? 趣味でやるの? それともあなたは資産家なの?」と揶揄されたのですが、笑って、「資産なんかありません。ましてや趣味でなんかありませんよ〜」「まあ、……頑張ってね…(苦笑)」…。
そんな逆境のなか、文学をジャンルの中心に選んだのは、書店の棚が少なくなっていくから、そして、それに呼応するように他社が徐々に手を引いていくからということがあります。どの出版社も出さなくなってしまったらどうなるんだろう(もちろん、今もしっかりと良質の文学の研究書を出している出版社はあります)。
大学には文系、理系、そして学部を問わずに英語を教える教員がいます。その教員の多くが英(米)文学科(研究科)の出身です。専門は文学のみならず、思想や歴史、語学と細分化されていきますが、大きくは英米文学というジャンルでくくれるわけで、その方々が本を出したいと思ったときに、高給をとる多くの社員を抱える大手では文学研究書の企画はほぼ通らない、中堅どころもなかなか厳しい。語学の教科書を中心としている出版社でも研究書を出しているところは多くありますので、その出版社から出すか、という選択肢が残ると思います。
つまりは、多くの潜在的な英米文学科出身の学者がいて、本を出そうとした場合の選択肢の一つになれればいいなという思いが根底にはあります。まあ、そもそも僕が作りたい、という思いが第一なのですが…。
でも、ここでひとつだけ、二人きりの会社でこんな会話をしています。
「ほかの出版社で断られたから、仕方がないからあそこでいいか」
といわれるような出版社ではなく、
「ぜひ、あそこから出したい」
と思われるような出版社にならなきゃね、と。
そのためには、これまでのご恩を大切にしながら、自分たちも胸を張って良書といえ、そして、著者も満足し、そして、読者もいい本だと思ってくれる本を作っていきたいと思います。
2018年12月から刊行開始し、何冊か出した時点で、ある方から、弊社の本を手にして、素敵な本なので、自分の本もぜひ出してほしいのですがと言われました。これはとても嬉しいです。弊社のキャッチコピーは、「本が本を産む」です。出した本が気に入られ、新たな本が産まれていく、そんな思いでつけたわけですからね!
もちろん、弊社から本が産まれなくてもいいのです。たとえば、弊社から出た本を読まれて、それに触発され、違う本を書く。それがたとえ違う出版社からでもよいので、本が産まれればとても嬉しく思います。本を出した著者が、また、新しい本を出したいと思ってくれるのも嬉しいです。出したはよいけれど、それで終わりでなく、本を産み出したら、さらにいろいろな形で本が産まれていくとよいなと思っています。
それから、昨今のニュースなどを見ていて、なにか欠けていると感じているのは、やはり「人文学的想像力」なのではないかと思ったりします。
文学は役に立たないなどと言われますが、文学理論などが大好きだった僕などは、脱構築なんて知った日には、日常の出来事や何気ない会話がまったく違って感じた覚えがあり、文学をやっていくことによって、想像力が広がればいいなあというざっくばらんとした認識でおります。
(もちろん、ここでは文学の方が役に立つと単純に述べているわけではありません。もしそう述べてしまうと、文学以外を否定して、文学こそ役に立つといっていることになり、自らが否定している考えを実践するという隘路に陥り、脱構築されてしまうからです。そうしたことを意識するのも文学的想像力なのだと思いますが…)
【売れるジャンルを探るには】
マーケットを見て、売れているジャンルがあると、そのジャンルに力を入れるべきという考えはむろん、正論です。でも、そのジャンルを決めるのは誰なのでしょうか? このマーケットリサーチはとても重要で、大手出版社の編集を外注でやらせて頂いたときなど、マーケットのリサーチ部がとても発言権が強く、編集部はそれに従うだけ、という傾向も目の当たりにしました。雑誌の創刊時なども、サンプルを作り、ランダムで一般の方に読んで頂き、会議室でいろいろと意見を言って頂いて修正していくという場に同席する経験もありましたが、こうした売れるための方向性を決定するリサーチは、大手にしかできないと思います。もちろん、知り合いの書店員に聞いたりするなど、小さな版元でもできることもあるとは思いますが、大手のやり方を多少なりとも見聞きした僕には、次元の違う話に感じます。
ですので、売れるジャンルに合わせて本を作ることに関しては、そもそも売れるジャンルを誰がどのように探るかによって、変わってしまうので、マーケットを探ってからそれに合わせるのでなく、著者と自分たちが満足できると思える書籍を作り、それに呼応してくれる読者を獲得していく方向がよいのかなと思っています。
(一番悲惨なのは、売れるマーケットに引っ張られて、自分自身は本当はたいして興味もないのに頑張って作ってみたものの、売り上げはよくなかった、という展開…)
【ジャンルを絞ることの意義】
また、小鳥遊書房では、各書籍の帯に、弊社のアイコンである小鳥の下にジャンルを示してあります。たとえば、[外国文学/評論]などと。
これは一見すると、ジャンルを絞り過ぎるという反対意見もあろうかと思いますが、とある書店の方とお話ししたとき、この本はタイトルを見ても、Cコードを見ても、どこの棚に置いたらよいのか迷うなあというものがあると、Aの棚がよいのではと、Bの棚担当が思うと、Aの棚担当は、いやいや、これはBの棚の方がよいでしょう、と本が迷子になり、結局、ストッカーやバックヤードにもぐるか、返品されてしまうということもあるようです。僕たち編集者や著者は、あちらの棚でもこちらの棚でもこの本を置いてくれるといいのに、と思いがちです。でも、毎日大量の新刊が書店に送られてくるのに、一種類の書籍をいろいろな棚で展開するほど、多くの書店では棚が豊かではありません。したがって、読者にもっとも届きそうな棚に迷子にならずに届くよう、あえて、帯にはジャンルをつけることにしています。
ジャンルを絞るって、とても恐いです、でも、この本は、どこかの棚で売れればいいなではなく、迷子にならずにこの棚にいって、そして、きちんと読者の手に届いてもらいたいと思っています。要は、読者を想定するということなのでしょうね。
ジャンルを絞るメリットとしては、学術出版社の場合は学会販売などがあります。僕は古巣の彩流社にいたときから、基本、日本英文学会、アメリカ学会、日本アメリカ文学会には出展に参加させて頂いていました。
それぞれ出展すると、そのジャンルの研究者に本をダイレクトにお披露目できるメリットがあります。このためには会社として各学会の賛助会員になる必要があります。もし、これが、あらゆるジャンルの書籍でやろうとしたら、破綻しますね。英文学会だけでなく、独文学会、仏文学会などなどすべてに広く浅く広がっていっては小さな出版社にとって賛助会員になるだけでも大変ですし、地方開催の場合の出張だって大変な事になります。そもそも学会って、膨大な数があります。従って、ジャンルは広く浅くではなく、狭く深くがよいのだと思います。
でも、ジャンルを絞るのは恐いですよね。
こうしたことを書いていて、文学でも芸術でもないからなあ、ということで、弊社が敬遠されてしまうかもしれません。でも、それはそれで、仕方がないことだと思っています。
【どの本も均等に我が子のように愛するということ】
また、僕自身、そして、後輩にも毎日のように伝え、お互い共有している編集をするにあたっての共通概念があります。
それは、弊社で作らせていただく書籍は均等に、我が子のように愛するということを是としようというもの。どの本も均等に愛します。
僕は、自分が担当した本は、我が子同然だとよく言ったりツイートしたりしますけれど、子どもからすれば、誰かをえこひいきする親、信用できますか? できないですよね。
それと一緒です。
だから、一般で売れそうだという本だけを特別扱いして愛することをせず、どの本もそれぞれに特別扱いして、どの本も特別に愛していきたいです。本の性質、本の分量などなどによって、愛し方は違うけれど、そそぐ愛情は同じでいたい。子を持つ親は、みんなそうおもうのではないでしょうか…。
そんな思いをもっていたいです。だから、どれがイチオシ本であるとか勝負本だとか、これは、よくできたとか、他の本と比べることはしたくないです。どれも、よくできたし、どれも同じように胸を張って出来上がった本、出来上がる本です。
そういう思いを抱き続けていきたいと思っています。
(そもそも何かをとくに愛することをすれば、取りあげられなかった書籍の著者が、自分の作った書籍はあまり力を入れてくれなかった、と悲しませることにもなると思います)
弊社のHPやSNSの壁紙であり、すべての書籍のバーコード側についている「小鳥遊書房」という文字を書いて下さった学魔こと高山宏先生は、自分は英米文学から足を洗った、それなのに、小鳥遊書房は英米文学を中心にするっていうんだね、とあるとき言われました。ジャンルを絞りつつ、なんとか、頑張っていこうと思います。
で、分厚い『イェイツ・コード』(576頁)そして、これまた分厚い『『荒地』の時代』(832頁)を読まれた学魔から電話がかかってきました。
「こうした本を出して、小鳥遊書房は、いったいどこに行っちゃうの?」と。これは、弊社への最大限の賞め言葉だと受け止めています。
はい、「そうしたところ」へ行こうと思います。
今回、ジャンルのことをあえて書きましたのは、出来たての弊社がどのようなことをやっている出版社なのかを分かって頂ければ、という思いからです。
さてさて、
鷹に脅えるように、出版界の片隅で、ピヨピヨ鳴いている出版社ですが、そんな思いで、今日も本作りが何よりも好きな二人の編集者が本作りをしております。