技術革新雑感
地方で出版を始めて23年が経つ。未だに手探りで進路を探っている状態なので、そんなにも月日が経っていることに驚くばかりだが、ひとつ、確かに月日が経ったなあ、と納得することがある。視力の衰えである。日常生活に困るような衰えではないが、ウチは版下を自前で作る。これが結構堪えるようになったのだ。ルビやフォントの確認など、これまで以上に細心の注意がいるようになった。こんなとき、しみじみと“道具の進歩”に感謝する。5ポイントの文字も、0.1ミリの線も、モニターの画面一杯に拡大することが出来るのだから、パソコン様様。かつて、写植文字をカッターナイフで切り取り、ピンセットで貼り込み、していたことを思うと、まさに隔世の感である。何百ページもの本を写植文字で仕上げるなど、昔はよくやれたものだ。今の視力・体力では、とてもおぼつかない。・・・何年も前、先輩の写植屋さんが、「目がついていかなくなった」と廃業してしまったことをしみじみと思い出す。
そもそも、ワープロの登場に衝撃を受けて、出版社を立ち上げたのだった。これで「活字」を自分で扱うことができる、「本」を作れる、と。16ドットや24ドットの、今、見直してみるとよくぞと思う荒い文字ではあったが、ちょっとした情報誌や個人誌、報告書などには充分であった。その前はガリ版や手書きでコピーだった。
もちろん、きちんと商品化するものは写植を始め制作の様々な部分を外注に頼らなければならなかったが、すぐに時代の方からこちらに歩み寄ってきた。版下を作成するための様々な行程が、次々とパソコンでできるようになったのである。おまけに通信手段の進歩である。遠方の著者とも、直接会わずともメールのやりとりで一冊の本に仕上げることができるようになった。
・・・まさに、技術革新の恩恵を受けて出版を実現し、継続し、今、視力の衰えまでカバーしてもらっているわけだが・・・。
ふと、これでいいのだろうか、と思うことがある。技術の進歩で作業はスピードアップ、こなせる仕事の量が増えた・・・のはいいのだが、本作りには、それ相応の時間が必要なように思う。著者が原稿を仕上げるのに、文字を書く(打つ)時間以上に内容を熟成する時間が必要なように、原稿から本になる過程にも、著者の意図するところを知り、形に作り上げていくための試行錯誤の時間が欲しい。それが今、なまじ、物理的には可能なばっかりに、時間いっぱいに詰め込んだ仕事を抱え込んでしまって、あっぷあっぷしているような気がしないでもない。
老後は、悠々自適の出版をしたい、年に一、二冊、マイペースで仕上げていくような出版を・・・などと夢みてしまう。もっともその頃には、書籍の形態は工芸品になっているかも知れない。