読者はどこに?
本は「思わぬ」ことだらけだ。
朝日新聞の書評欄で「売れてる本」という文章を一編集者として書いている。ベストセラーの本を担当編集者らへの取材をもとに紹介する。この仕事のおかげですっかりビジネス書を読むのか苦にならなくなった。というより、楽しくなった。勝間和代も本田直之の本も読む。以前はビジネス書の棚には目もくれなかった。しかし、必要に迫られ、中身を知るほど、これは自分にとってたいそう身近な問題が書かれていると思う。
要は、身につまされるのだ。たとえば、ある本には、よくこんなことが書かれている。
〈起業するほとんどの会社は3年以内になくなっている〉
このラインは無事通過した。こういうのもある。
〈成功するか失敗するかは、どこを仕事の分野として選ぶかでおよそ決まっている〉。
これはどうだろうか…、といったことを感じながら、ページをめくっていく。
我ながら自分は「思わぬ」読者だと思う。「本」とは、きっと「思わぬ」結びつきを秘めている物体なのだ。紫式部は、1000年たったのち、しかも海の向うに人にまで、自分の書いたものが読まれるとは思っていなかっただろう。でも、どんな本でも、その可能性をもっている。本はそこにあれば読まれるだろう。本があるかぎり「思わぬ」はいつでも起きる。
最近、二冊、本を出した。工藤庸子『砂漠論』、祖父江慎・藤田重信・加島卓・鈴木広光『文字のデザイン・書体のフシギ』。
前者は、アラビアのロレンスではないが、ヨーロッパが惹かれてやまない「砂漠」を、フランス文学の大家が論じた評論集。後者は、文字と書体とデザインについて、専門家が図版をまじえて語る講義集。二冊とも、力をこめて編集した。
むろん、想定読者はいる。しかし、読者とは具体的な「あの人」ではない。それが正確にすべてわかれば、返品はなくなるだろう。読者とはいつも未知の存在だ。雑踏の中ですれ違った人と、左右社の本をはさんでつながっているかもしれない、ということだ。いや、もしかしたら1万年後たって……、その可能性は全部否定できない、はずだ。本はやはりたいそう不思議な物体だと考えざるをえない。