『証言-佐世保68・1・21』出版から39年
版元ドットコムに参加して1年が過ぎました。
地元の福岡でも「はかた版元新聞」に参加しております。
以下は「はかた版元新聞vol.17」に掲載されたものですが、
櫂歌書房の出発点として自己紹介といたします。
『証言-佐世保68・1・21』から39年
倉庫の棚からポロッと本が落ちてきた。
『証言-佐世保68・1・21』だ。創言社に入社してはじめてつくった
本で、すでに背表紙の天地がめくれ紙魚が浮着している。
なつかしさといっしょに青酸っぱいものがこみあがってきた。
この本が私の出発点。あれから39年もたってしまった。
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本書が出版された1968年当時、ベトナムではベトナム解放戦線が攻勢を
強めアメリカ軍はジリジリと後退を余儀なくされていた。森林を一瞬に
して焼きつくすナパーム弾、親爆弾から子爆弾を霰のようにまき散らす
クラスター爆弾。アメリカは世界の非難をあびていた。
そんな中空母エンタープライズが佐世保に入港してきたのが1月21日
である。
燎原の火のごとく日本中から労働者、学生、一般市民が反エンプラ闘
争に立ち上がり、新聞、テレビは連日機動隊と学生との間で繰りひろげ
られる衝突を報道していた。
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歌人であった編者の松田修氏は「--歌がやってきた。うたってしま
ったのだ。半透明のゲル状の退廃から、飛びたつための傷ついた翼、ぼく
の唯一の血路……佐世保問題に直面して詩(俳句・短歌・詩)をうたわず
にはおれなかった人、その人達の声をそのままに集めて一冊にしたらと思いついたのだ。」
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詩に投稿してくれたのが「九州記録と芸術の会」の方であった。大学をでたばかりの
23才は以来記録と芸術の会の方々鍛えられ薫陶をうけた。
ゲイボーイの店「静の屋」に酔眼朦朧として上がった福森隆と湯川達典
さんはピーターとおぼしき人とディープキッス。ぼくは何時になったらこ
んなことが出来るようになるのだろうかと眼前の光景に目をみひらいてい
た。路上に下りてきた福森さんはげえげえとおう吐してい
るが、湯川さんは泰然自若、下唇をへの字に曲げて遠くをみていた。
福森さんとは水俣病患者の窒素工場前の座り込みに参加したり、屯田兵
農場を作ったり様々なことに通じた兄貴だった。
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また高橋和巳氏に跋文をおねがいした。「一つの(佐世保)事件が世界の
大勢と呼応し、一つの苦痛の表白が、同時に普遍的理性の疾病につらなる
ものと強弁せずともよいと考える。むしろ大事なことは一地方、一国にも
せよ、私たちはそのなかでしかいきられないことの確認である。強いて崇
高な意義付けを求める必要はない。その中でしか生きられず、……各個別
者としての痛みや苦渋として表現することこそが、却って、ともすれば起
こる表現と生活の乖離を避ける道ともなるであろう」と。地方出版の存在意義
につながる文章に未来がもてたのである。
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その後松田先生は奈良へ移られ、高橋氏は亡くなられた。
証言、記録と芸術の会をつうじて、九州派の櫻井孝身さん 、深野治、寺田
健一郎さん、無名通信を発行されている河野信子さん、河野信子さんから上
野英進さん、石牟礼道子さんとも知り合うことができた。
しかしながら突如として義兄への「伝習館偏向教育処分」-免職が起こり、
家族ともども柳川の柳下村塾に参加することにした。福岡と柳川の2重生活、
出版のために始めた印刷業の不振。この39年間、たらいの底をはいずり回る
ようにして生きてきた。
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薫陶を受けた方々に何も恩返しはできていない。すでに亡くなられた方も
おられる。うつむけば涙がにじんでくる。
地元の版元が十数社集まり「はかた版元新聞」を不定期で出しています。
(事務局は石風社さん)機会があれば「はかた版元新聞」の事を詳しく紹介したいと思います