極端な行動力を持つ人間たち
このところ、といってもここ2年位だが、夜な夜な誰彼と呑んだくれる日々が続いている。元来下戸であったからこの調子で行くといつ肝臓が壊れるのだろうかと時折不安がよぎるが、酒好きになってしまったんだからまあ仕方ないと相も変わらず呑み続けている。
本郷村の零細出版社に潜り込んだのが5年前、それはそれで極めて楽しいことでもあったが、夕方も6時を過ぎるとどこからともなく客が現れて何となく「さつま白波」を汚いコップに注ぎ始めるのがそこいらの流儀であった。それでもなお仕事をしていると「おい、仕事やめろ!呑め!」と怒鳴られたこともある。アルコールに全く免疫がなかったわたしが隠れた酒好きになるのにそうは時間はかからなかった。
その後不義理を重ねて随分転職を繰り返してきたが、酒を呑む習慣だけは身体に染みついてしまっている。酒のみになってしまったことで「本郷村のオッサンたちが悪い」などど毒づいてみても呑むのは自分のことだし、これ以上言うとお世話になっている皆様から苛められそうだからやめておく。
生きることにこれだけ選択の幅がひろがっているにもかかわらず、こぢんまりと自らを限定して楽に生きようとする人が多くなってきた。情報があってもそれを身体には取り込まない。ただ茫洋と見ているだけの流れゆく情報。選択するのは自分自身であるにもかかわらず。自らの足で行動し、自らの意志で生きることをやめた現代人たち。
関西大学探検部とここ2年ほどつき合っている。現代において、探検部という活動或いは探検という言葉そのものの意味が崩れかけている。人類はその飽くなき探求心と行動力でこの地球上を制覇してしまった。未知なる土地、地図上の空白はもう存在しないのである。
関大探検部は未知なる土地がないのなら、誰もやったことがない未知なる行動をすれば良いだろうと、樹上を歩くというテーマを考えた。それもなるべくなら人があまり入っていないところを。
調べていくうちに彼らは熱帯雨林の樹上で生活するというアイデアにたどり着く。これが実は人類に残された数少ない未踏の部分なのである。熱帯雨林の葉で覆われた樹上部分を「林冠」あるいは「天蓋」と呼ぶ。そこには数多くの動植物が存在し、生態学者たちにとってもまだ多くの謎が残されている。何故研究が遅れているかというと、熱帯雨林の林冠部は地上から20〜30メートルの部分に当たり、アプローチすることが極めて難しいからである。「だったらオレたちがやってやろうじゃないか」と彼らは行動をおこした。
2 度の調査を経て、遠征地をマダガスカルに決定した彼らは、木の上にテントを張り、地上に降りることなく木から木へ1000メートル移動するという目標を設定する。しかも、どうせやるならただ移動するだけでなく、そこに生息する動植物のサンプリングや、林冠研究の方法論までつくってしまおうじゃないかと準備に入った。結果的に彼らは目標を達成したのだが、実際の遠征よりも遙かに苦労が多かったのが準備段階である。
それぞれ文系学部に籍を置く学生である彼らが、いきなり生態学分野の研究ができるわけがない。まずは図書館に潜り込み、参考となる文献を読みまくったというが、あくまでそれは本の中での話である。マダガスカルで彼らが研究対象としたのは探検の技術そのものは別として、蘭、着生植物、昆虫、海産物といった生態学の部分で、それぞれどのようなやり方をすれば良いか、日本にいる専門家に指導を仰いだ。中にはその学会の人間でもそうおいそれとは近づけないような世界的権威にも彼らは遠慮なく近づいていった。概ねは暖かく応援してくれたという。結果、ある程度の目標と学者たちの支援を取り付けることに成功した。
次はカネの問題である。方々で値切ってかなり安く済んだとはいうが、それでも一人頭の遠征費は100万円かかる。しかも資材は別である。身近なところでは親を騙すことからはじめ、準備の合間を縫ってアルバイトをし、様々な企業から資金、機材、薬品、食料、通信等の援助を取り付けた。さらに、自分たちの行動を身内だけで分かち合っていてもつまらないと、新聞、雑誌、テレビ局にも働きかけ、遠征記を発表するメディアにまで自分たちで渡りをつけた。
現地からの遠征許可も受け、カウンターパートと通訳の人選も終わり、さあいよいよ出発というときに突然「矢張り許可できない」という知らせが届いたときも、彼らはマダガスカル政府や欧米の研究者、NGO団体を敵にしたり味方にしたりしながらねばり強く交渉を重ね、結局自分たちの意志を通してしまった。この行動力!
わたし自身の行動範囲は今のところ狭いかも知れない。しかし、極端な行動力を持つ人間はいつの世にも必ずいるものである。そうした人たちの行動を読者に伝えていきたいと思う。刺激を与えたいと思う。書籍というものは極めて少ないロットでありながら、表面をなぞるだけの新聞や、情報を凝縮しすぎてしまうテレビなどと違って、コアな部分に訴えかける力を持つ数少ないメディアである。
今ある読者はいずれ死にゆくものである。刺激を与えきっかけを作り、新たな読者を掘り起こすことをしなければ、書籍というメディアは衰退する一方ではないか。著者を喜ばせるのではなく読者を喜ばせ、自らの狭い生活環境を脱却して、ささやかながらも「伝える」という行動をしなければならない。版元にある役割はきっとそこにあるのだと信じている。