占領下の日本に生まれて
最近続けて5冊の文庫・新書を読んだ。『新憲法の話』(古関彰一、中公文庫)、 『侵略戦争』(纐纈厚、ちくま新書)、『日本海軍の終戦工作』(纐纈厚、中公新書)、『戦略爆撃の思想』(上下、前田哲男、社会思想社文庫)だ。前田さんの『戦略爆撃の思想』は親本で読んでいたが、自宅の本棚に見当たらず、改めて文庫を買っ た。
いずれの本もとても面白く、さすがに「寝食」は忘れるほどではなかったが時間を ひねり出して一気に読んだ。それぞれの内容についていちいちここで触れる余裕はな いが、自分の生きてきた時代について考えるのに山のような示唆があった。
3月は、子供のころからなんとなく戦争のことを考える季節になっている。私は 1947年に生まれた。3年前に死んだ父は、「学徒動員」で1944年に中国戦線へ軍医と して出征している。父の父すなわち父方の祖父は、東京・深川で医者をしていたが、 父が戦場にいるあいだに東京大空襲で死んだ——というか1945年3月10日以降、現在 までずっと行方不明のままだ。でも、私に戦争の実感は当然ないし、会ったことも触 れたこともない祖父に、肉親の情のようなものはほとんど感じたことがない。前田さんの『戦略爆撃の思想』からすると、重慶への日本の戦政略爆撃の延長線上に米ルメ イ将軍の対日戦略爆撃の思想がある。してみると、私の祖父は日本が考え出した「戦略爆撃の思想」によって殺されたことにもなる。
ドイツの同世代と違って、私たちの世代は父親たちの戦争責任を追及することがで きなかった。こうした責任が問われないまま半世紀が過ぎるうちに、現代の若者たち のあいだになにやらドス黒いナショナリズムが広がっているようだ。台湾から入境拒否までされる「よしりん」のマンガのどこにそんな説得力があるのだろうか。また、 扶桑社の教科書で教育される子供たちの将来も心配だ。現在読んでいる『天皇の戦争責任』(径書房)のなかの橋爪大三郎さんの言説にも、時代錯誤的な異様なものを感 じる。
出版界の現況と同じで、どうも明るい未来は見えてこない。このへんにくさびを打ち込むような本を出してゆきたいと考えている。
まだ書きたいことがあるが、長くなるのでまたこの次の機会に。
ところで、先週の矢野さんの記事について一言。
矢野さんは、「すべての表現は一切の公権力から自由でなければならない」という が、私は「公権力への批判には完全な自由が保障されなければならない」という立場 をとる。私的な存在・関係に関する表現の自由が無条件に認められているとは考えて いないからだ。
むろんこれは、「規制」を容認するという意味ではない。あらゆる検閲・「自主規制」・出版表現の制限には反対だ。
暴力にしろ、殺人にしろ、ポルノにしろ、どんな表現をするかは、要は、表現者の 個人としてのモラルと責任の問題だ。したがって、いったん本になって、あるいは映画として、世の中に出てからの批判・非難・反論は当然ありうるし、また、表現者にはそれを受けとめる責任がある。