書店員向け情報 HELP
出版者情報
書店注文情報
取引情報
0の裏側
数学と非数学のあいだ
- 初版年月日
- 2025年3月3日
- 発売予定日
- 2025年3月3日
- 登録日
- 2025年1月7日
- 最終更新日
- 2025年1月31日
紹介
哲学的人類学者(中沢新一)と、現代的集合論を専門とする数学者(千谷慧子)と、数理科学が専門で東洋思想にも深い理解をしめすAI開発者(三宅陽一郎)が、西洋的論理と東洋的思考とを行き来しながら、「理性」と「直観」のあいだに拡がる未開拓の「思想」の領野を切りひらく!
《「月の裏側」とは、実在しているのに見ることのできないもの(こと)を象徴する言葉である。太陽に照らされている側は見えるのに、その裏側は地球からは見えない。しかし見えないからといって、実在していないわけではない。(…)
そこからの連想で、私たちは「0の裏側」という言い方によって、実在しているのにもかかわらず、理性で理解しつくすことのできない、数学的世界のいわば「裏側」の光景のことを表現しようとしたのである。(…)
私たちは、お互いが得意とする表現手段を用いて、数学的世界の「裏側」への道案内の本を書いてみようと、考えるようになった。(…)》
(中沢新一「はじめに」より抜粋)
目次
はじめに――中沢新一
第1章 導入――中沢新一
第2章 数学とレンマ学――中沢新一
第3章 レンマ界の集合論――千谷慧子
第4章 岡潔のレンマ的数学――中沢新一
第5章 解説――三宅陽一郎
前書きなど
【中沢新一「はじめに」より】
「月の裏側」とは、実在しているのに見ることのできないもの(こと)を象徴する言葉である。太陽に照らされている側は見えるのに、その裏側は地球からは見えない。しかし見えないからといって、実在していないわけではない。月の裏側に回り込むことのできる衛星を飛ばすことができれば、いままで見えなかった月の裏側の光景が見えるようになる。
そこからの連想で、私たちは「0の裏側」という言い方によって、実在しているのにもかかわらず、理性で理解しつくすことのできない、数学的世界のいわば「裏側」の光景のことを表現しようとしたのである。「0」という数学記号は、理性の光が照らし出す数学的世界の「表側」を代表しているが、その「0」には月の場合と同じように「裏側」があって、そこまでは理性の光は届いていない。数学的世界が完全なものであろうとするならば、この「0の裏側」のリアリティを理性的な「0の表側」のリアリティと合体させる試みをおこなってみる必要がある。
私たち三人は、理性のとらえている世界には、その「裏側」があると考えている。なぜなら理性のとらえている世界には、かならずどこかにバグが存在していて、どんなに矛盾のない論理的に完全な表現をつくりだしてみても(完全性定理)、バグを完全に除去してしまうことができないからである(不完全性定理)。バグとは矛盾のない論理的表現のつくりだす平面に穿たれている「穴」のようなものであり、その「穴」からはなにかの有意味な情報が漏れ出している。それは「裏側」の領域から漏れ出している未知の感触を持っている。そして「穴」から漏れ出しているそれらの情報は、数学的平面に新しい概念を創出するよう、進化を促すのである。
私(中沢)は、ロゴス的理性のとらえている世界の「裏側」に張り付くようにして実在している別種類の世界に「レンマ的」という名前を与えて、その内部構造に接近することを可能にする学問的方法を探究してきた。この接近を可能にするためには、大乗仏教が開発してきた「レンマ的」な超越論的論理学の手助けが必要であった。そのような超越論的論理学のもっとも完成形に近いものを、私は『華厳経』の中に見出した。私の著した『レンマ学』では、この仏教による超越論的論理学を、現代科学の諸領域につなぐことのできる、新しい形に生まれ変わらせようとした。
『レンマ学』によって、私は西欧で発達した論理と東洋で発達した別種の論理とをつなぐことのできる、学問における「平均律」を生み出そうとしたのである。この音楽との比喩は、明確な根拠を持っている。ヴェルクマイスターとバッハによる「平均律」の発明は、それまで簡単に互いに移行しあうことの困難だった「自然音階」の間を自由に行き来できる、新しい調律法を生み出すことによって、さまざまな旋法の間を「転調」によって、自在に行き来できるようにして、西欧音楽に飛躍をもたらした。それと同じようにして、西欧的論理と東洋的論理の間の自由な行き来を可能にし、「転調」による二一世紀の新しい論理表現を生み出すために、私は『レンマ学』を書いたのである。
この本を書いていたとき、このような思考を大方の数学者はぜったいに認めないだろうという、なかば諦めに近い「確信」を抱いていた。ところが二〇一九年にこの本が出版されてからしばらくして、札幌から一通の手紙が送られてきた。その手紙は千谷慧子という数学者からのもので、そこには『レンマ学』の内容に対する共感が綴られてあった。
千谷慧子は現代的集合論を専門とするプロの数学者であり、中沢は数学に対してアマチュアとしての関心を抱き続けてきた哲学的人類学者である。中沢は『レンマ学』において、『華厳経』にもとづく思考の転回を目論んだが、そのさい現代数学の最前線で起こっていることがこの転回と深く関係していることを、その本の中で語った。それに千谷が強い関心を抱いたのである。
千谷はイリノイ大学の竹内外史教授の共同研究者として、直観主義集合論の研究を続けてきた。しかも東京大学の学生の頃の担当教官は『華厳経の世界』の研究者としても名高い数学者末綱恕一教授であった。彼女は『レンマ学』の中に、現代的集合論が向かっているところと『華厳経』とを結びつけているたしかな環を直観した。
それから対話が始まった。二人はしだいに現代的集合論の向かっている方向のさきに、『華厳経』に描かれている法界(ダルマダーツ)の構造と論理に酷似した「レンマ的」原理を持つ世界が広がっていることを、認識するようになった。この「レンマ的」な法界そのものは、「ロゴス的」な論理の体系によって表現し尽くすことのできない、いわば「数学の裏側」である。しかしこの「数学の裏側」についての直観的認識は、現代的集合論を長年研究してきた彼女には、『レンマ学』を読む以前から、すでになじみのものであった。
竹内外史の努力は、直観主義論理や量子論理や層理論などによって、現代集合論を拡張していくことに傾注されていた。その精神を受け継いだ千谷慧子は、現代的集合論の「層理論化」を推し進めることによって、集合論にある「穴=バグ」を縮小する道を探り当てようとした。そして彼女の中で、そのような探究を突き動かしているものが、『華厳経』に描かれているような法界への直観であることを、ますます深く実感するようになっていった。
そこで私たちは、お互いが得意とする表現手段を用いて、数学的世界の「裏側」への道案内の本を書いてみようと、考えるようになった。ただそこには一つ問題があった。千谷が得意とする表現法と言えば、徹底した形式主義によって厳密に論理を展開する、現代的集合論によるそれである。これは楽譜を読む訓練をしたことのない人に、いきなり交響曲の総譜を手渡すようなもので、普通の読者にはまるっきり読むことのできない難物である。じっさい何人かの編集者たちに出版の可能性を相談しても、「このご時世ですし残念ですが……」のお断りが返ってくるばかりだった。
このとき二人の救世主があらわれた。一人は数理科学の専門家で東洋思想にも深い理解と造詣を持つ三宅陽一郎であり、もう一人は冒険的な出版に意欲を燃やす、コトニ社の後藤亨真である。三宅陽一郎は独特のポピュラライズの才能を発揮して、千谷の形式論理学による難解な「文章」を、イラストを駆使した豊かな直観を誘う読みやすい別種の文章へと「翻訳」してくれたのである。この翻訳によって千谷慧子の意図した思想は、とかく数学に尻込みしてしまいがちな一般読者の理解にも、ほぼ正確な形で開かれることになった。三宅によるこの翻訳がなければ、コトニ社での出版さえ危うかったのであるから、この本は千谷と中沢と三宅の三人によるものと言って間違いがない。
上記内容は本書刊行時のものです。