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ニューカマー宗教の現在地
定着する移民と異教
- 初版年月日
- 2024年7月23日
- 発売予定日
- 2024年7月24日
- 登録日
- 2024年7月1日
- 最終更新日
- 2024年7月3日
紹介
異文化共生の風景
日本に定着し、家族を持った移民たちは、各地に宗教施設をつくり、自らが眠る墓を準備しはじめた。
イスラム教、上座仏教、大乗仏教、ブラジル系福音主義キリスト教、中国系新宗教など、外国生まれの宗教が、地域社会との軋轢を乗り越えて、日本に浸透していくさまを、フィールドワークから活写する。
目次
はじめに/三木英
序章 移民を知ること、宗教を知ること/三木英
Ⅰ 定着し展開するニューカマー宗教
第一章 在日ブラジル人社会でブラジルらしさを追求する──福音主義教会という磁界/三木英
第二章 国内ムスリム社会におけるマスジドの個性化──主張する小集団の形成/三木英
第三章 在日ベトナム人にとって仏教寺院とは何か/三木英
第四章 ニューカマー宗教集団における経時的変化──集団論・組織論的アプローチ/三木英
Ⅱ ニューカマー宗教と日本社会との接点
第五章 自治体とイスラームのインターフェイス/三木英
第六章 日本におけるムスリム墓地展開と外部アクター/吉田全宏
第七章 スリランカ系上座仏教の活動への日本人による参加/岡尾将秀
第八章 外来新宗教のハイブリッド化と日本定着──中国(台湾)系新宗教・天道の場合/對馬路人
あとがき/三木英
前書きなど
はじめに
中高一貫の学校で高校一年生の第一学期が始まった。爽やかな季節。新たな人生の扉がいま、まさに開かれたばかりである。とはいっても、あまり緊張していない自分がいるのは、これで四年目だからだろう……そんな状況を想像してみる。
周りには中学以来の顔見知りが多く、高校生になったからといって不安などない。しかし見慣れない顔も目に入ってくる。いろいろな地域の中学校から、敢えて一貫校に進学してきた生徒たちである。この高校は世評に高いのだ。
どんな人たちなのか、少し気になる。彼らと仲良くやっていけるだろうか。いや、そもそも、仲良くする必要があるだろうか。以前からの友達がいるのだから、新参の彼らと話す必要なんかない。とはいえ、せっかく同じ学校で学ぶのだから、無視するのもどうかと思う。タイミングを見計らって話しかけてもよいのだが、まだそうする気になれずにいる。
一方、高校からの入学組は不安を感じているだろうか。中学から上がってきた生徒たちは既に強固な人間関係を築いており、そこに入り込む余地などないように見える。では、同じく高校から入学してきた面々に話しかけるのがよさそうだが、初めて顔を合わせたばかりであるから躊躇してしまう。不安は尽きないが同じ中学を卒業した生徒も、少ないとはいえ、入学してきている。新生活は始まったばかりだ。これからの高校生活を良いものにしていくには人間関係が大切であることはわかっている。わかっているが、うまくやっていけるのか……。
果たしてネイティブとニューカマーが打ち解け合うことがあるだろうか。舞台が高校であれば、きっと何とかなるはずである。若者同士、理解し合うのは早い。そもそも学校なんて狭いものだ。何度もすれ違っているうちに顔見知りになる。きっかけさえ掴めば、仲良くなるのに長い時間は要らない。あるいは学校生活は三年間と定まっているのだから、仮に人間関係が築けなかったとしても辛抱すればよいだけの話である。
こんな学園ドラマのような人間模様は、現実の日本社会のなかでもありうる。ネイティブが日本人住民であり、ニューカマーが外国出身者(法務省の用語で表現するなら「在留外国人」)であるケースがそれにあたる。ニューカマーの多くは、学ぶため、あるいは働くために来日しており、したがって彼らは相対的に若い。また留学や技能実習の期間が終了すれば帰国するのだから、彼らと付き合うことになったとしても、その期間は限定的である。
もっとも、ニューカマーがすべて留学生や技能実習生であるわけではない。日本で暮らし続けることを望むニューカマーは数多いのである。そんな永住志向の彼らと日本人住民との人間関係は、どのように織り成されていくだろうか。
帰国を前提とせず日本に定着する外国出身者が多数にのぼるという事態は、古代に日本に渡来してきた百済人や新羅人のケース以来のことかもしれない。渡来人は新たな知識や技術をもたらして日本の発展に寄与した──そして時を経て日本に溶け込んでいった。この歴史を鑑みれば、いま存在感を増しつつある在留外国人は何らかの影響を日本社会に及ぼしてゆくかもしれない──そして日本に溶け込んでゆくだろうか。そう考えれば、いま日本は新しい歴史の扉を開こうとしているようである。
いずれ帰国してゆくパターンであれ日本永住のパターンであれ、外国籍住民が増加していることは既に広く知られていることである。そして今後も増えていくことが──予断を許さない昨今の世界情勢であるが──予想されている。だからこそネイティブとニューカマーとの関係の行方に関心を寄せずにはおられない。きっと何とかなる、のだろうか、学園ドラマのように。
しかもニューカマーという人々だけでなく、ニューカマー宗教というべき存在が日本国内に多数進出を果たしている。イスラームを筆頭に、台湾仏教やベトナム仏教、タイ仏教、スリランカ仏教、さらに中南米での勢力伸張が著しいプロテスタント(福音主義)やフィリピン発祥のキリスト教系新宗教、宣教意欲旺盛な韓国系キリスト教等々、これまで日本人がほぼ親しむことのなかった宗教、すなわちニューカマー宗教が日本国内にマスジドや寺、教会を設けている。日本人の眼には物珍しく映じる宗教施設の前を通れば、出入りする在留外国人を見かけることがあるだろう。宗教的ニューカマーと総称しうる存在が、彼らである。
海外にルーツを持つ宗教の施設が日本国内に数多く設けられているのは、ニューカマーたちが宗教的であるからに他ならない。異国で自分たちの祈りの場を設けるにあたっては財政面を筆頭に、越えねばならない様々なハードルがあるに違いない。しかし困難をものともしない程に、彼らは宗教を必要としている。だからこそ国内のあちらこちらに、馴染みのなかった宗教の施設が続々と姿を現すのである。そしてそこに同じ宗教(文化)を持つ人々が集まってくる。ちょうど、中高一貫校の高一の一学期に、同じ地域や中学校で時を過ごしてきた生徒たちが連れ立つように。
日本人のなかに「宗教的」であると自認する人は少なく、大部分は宗教に対し無関心であるか嫌悪する人たちであるだろう。しかしニューカマーにとって宗教が大切なものであることを、日本人は知らなければならない。良好な人間関係の形成・維持にとって、相手が大切に思うものを理解し合うことは必須である。だから日本人は──自身が宗教的であれ宗教に無関心であれ──ニューカマーの宗教を知らねばならない。宗教嫌いを自称する日本人のために敢えて言葉を加えるなら、日本人が異文化理解を志すのであれば、ニューカマーたちが携えてきた彼らの文化のなかにある──あるいは文化と同体というべき──宗教を理解するべきである。日本人がイメージする以上に、ニューカマーにとって宗教が持つ意義は大きい。
この宗教をキーワードとして、本書はニューカマーたちの社会に着目し、ニューカマーと日本人社会とが交わるところに分析的視線を注ぐ。そして社会の「いま」へと、アプローチを試みるものである。ここで得られた知見がネイティブとニューカマー、双方の未来に益することを願いつつ。
上記内容は本書刊行時のものです。