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ミニスターリン列伝 木村香織(著/文) - パブリブ
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世界独裁者名鑑巻次:Vol.1

ミニスターリン列伝 (ミニスターリンレツデン) 冷戦期東欧の小独裁者達

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発行:パブリブ
四六判
縦188mm 横128mm 厚さ29mm
456ページ
並製
価格 2,600円+税
ISBN
978-4-908468-78-0   COPY
ISBN 13
9784908468780   COPY
ISBN 10h
4-908468-78-8   COPY
ISBN 10
4908468788   COPY
出版者記号
908468   COPY
Cコード
C0023  
0:一般 0:単行本 23:伝記
出版社在庫情報
不明
書店発売日
登録日
2024年10月11日
最終更新日
2024年10月11日
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紹介

スターリンの権威を笠に着た機会主義者たちの栄枯盛衰を描く

ラーコシ・マーチャーシュ サラミ戦術で知られ「スターリンの最も優秀な生徒」と呼ばれた男
ゲオルギ・ディミトロフ 独国会議事堂放火事件裁判で英雄化、 バルカン連邦構想で叱られる
ヴルコ・ヴェリョオフ・チェルヴェンコフ 「チトー主義者」粛清でスターリンのお気に入り、その死と共に失脚
クレメント・ゴットワルト スターリン葬儀参列直後に急死し、スターリン批判を免れる
ボレスワフ・ビェルト ソ連のスパイ故、内向的でカリスマ性乏しく個人崇拝うまくいかず
ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ スターリン死後、西側とも関係良好、ソ連軍撤退まで要求
ニコラエ・チャウシェスク ネオスターリニズム推進し、妻エレナまで個人崇拝の対象に
ヴァルター・ウルブリヒト 社会主義陣営の模範国家と自画自賛しブレジネフから疎まれ失脚
エーリッヒ・ホーネッカー ゴルバチョフにまで呆れられ、ベルリンの壁崩壊、冷戦終結に寄与
エンヴェル・ホッジャ スターリン批判以降も堅持、ソ連・ユーゴ・中国とも袂を分かつ

目次

2 はじめに
11 目次
16 第二次世界大戦後の東欧の歴史
37 各国の共産党系政党名
38 各国の秘密警察・諜報機関の名称

39 第1章 ハンガリー
41 ラーコシ・マーチャーシュ サラミ戦術で知られ「スターリンの最も優秀な生徒」と呼ばれた男
61 反チトー・キャンペーンで最も効果的に作用したでっちあげ裁判 ライク事件
76 ハンガリーのグラーグ ブダ南抑留者収容所、キシュタルチャ中央抑留者収容所、レチク強制労働収容所、ティサルゥク収容所

91 第2章 ブルガリア
93 ゲオルギ・ディミトロフ 独国会議事堂放火事件裁判で英雄化、 バルカン連邦構想で叱られる
118 ヴルコ・ヴェリョオフ・チェルヴェンコフ 「チトー主義者」粛清でスターリンのお気に入り、その死と共に失脚
132 トライチョ ・コストフ ブルガリアにおける反チトー・キャンペーンで粛清された
142 トドル・ジフコフ スターリン死後から35年の長期に渡り権力の座に君臨
149 ブルガリアのグラーグ ベレネ強制収容所
154 ミニスターリン養成所だったコミンテルン付属のエリート学校 国際レーニン学校

169 第3章 チェコスロヴァキア
171 クレメント・ゴットワルト スターリン葬儀参列直後に急死し、スターリン批判を免れる
197 ルドルフ・スラーンスキー チトー主義ではなく、反ユダヤ主義が影響して粛清された
220 チェコスロヴァキアのグラーグ ヴォイナ強制労働収容所
229 「反帝国主義・反戦・平和・親善・連帯」スローガンに掲げられた 世界青年学生フェスティバル
233 アントニーン・ノヴォトニー 時代に逆行する保守的政策打ち出し、プラハの春の引き金を引く

241 第4章 ポーランド
242 ボレスワフ・ビェルト ソ連のスパイ故、内向的でカリスマ性乏しく個人崇拝うまくいかず

260 第5章 ルーマニア
262 ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ スターリン死後、西側とも関係良好、ソ連軍撤退まで要求
277 アナ・パウケル 「スカートを穿いたスターリン」と呼ばれるも粛清された
287 ニコラエ・チャウシェスク ネオスターリニズム推進し、妻エレナまで個人崇拝の対象に

313 第6章 東ドイツ
314 ヴァルター・ウルブリヒト 社会主義陣営の模範国家と自画自賛しブレジネフから疎まれ失脚
337 エーリッヒ・ホーネッカー ゴルバチョフにまで呆れられ、ベルリンの壁崩壊、冷戦終結に寄与

359 第7章 アルバニア
360 エンヴェル・ホッジャ スターリン批判以降も堅持、ソ連・ユーゴ・中国とも袂を分かつ
384 コチ・ジョゼ アルバニア共産党内ユーゴスラヴィア派代表として粛清された

391 第8章 ユーゴスラヴィア
393 ヨシップ・ブロズ・チトー 反スターリニズムに潜む「スターリニズム」
426 ユーゴスラヴィアのグラーグ ゴリ・オトク強制労働収容所
439 コミンフォルム派ユーゴスラヴィア政治亡命者たちの反チトー・キャンペーン活動

452 あとがき

前書きなど

2022年2月のロシアのウクライナ侵攻以降、ロシア国内では愛国主義が強まる傾向がみられ、一部ではスターリンの再評価までされつつある。スターリンは概して肯定的側面・否定的側面を合わせ持つ複雑な指導者であると評価されるが、ロシアで社会情勢が不安定になるとスターリンの様な良くも悪くも強い指導力を持った絶対的指導者が求められ、その象徴として現在一部ではソ連時代に絶対的権力を誇った独裁者が再評価される傾向にあるのである。
本書は第二次世界大戦以降、ソ連の影響下にあった中央・東ヨーロッパの国々におけるミニスターリンと呼ばれた、もしくはミニスターリンと呼ぶにふさわしい指導者たちを取り上げる。体制転換から現在までのところ、中央・東ヨーロッパの国々でミニスターリンたちが再評価される動きはないが、本書で彼らが師であるスターリンから何を学び自らの政治手法の投影させたのかを紹介してゆきたい。
本書で扱った人物たちを特徴で分けると、以下の様になる。

1 古参のミニスターリン ディミトロフ(ブルガリア)
2 ミニスターリン代表格 ラーコシ(ハンガリー)
ゴットワルト(チェコスロヴァキア)
チェルヴェンコフ(ブルガリア)
ビエルト(ポーランド)
ゲオルギウ=デジ(ルーマニア)
3 スターリン批判をかいくぐった(もしくはスターリン批判以降の)ミニスターリン ホッジャ(アルバニア)
ウルブリヒト(東ドイツ)
ノヴォトニー(チェコスロヴァキア)
ジフコフ(ブルガリア)
4 ネオミニスターリン代表格 チャウシェスク (ルーマニア)
ホーネッカー(東ドイツ)
5 反スターリンニズムのミニスターリン チトー(ユーゴスラヴィア)

1.コミンテルンで活躍したディミトロフは、年齢的にもスターリンと4歳しか違わず、共産主義運動草創期からアクティブな活動家であった。ディミトロフは第二次世界大戦後のブルガリアにおける共産主義政権の基盤を作るために強権的な政策をとっていった。第二次世界大戦後のブルガリア史を紹介する上でディミトロフを外すことはできず、コミンテルン仕込みの共産主義者ディミトロフは、1949年に突然死去するが、草創期のミニスターリンである。
2.ラーコシ、ゴットワルト、チェルヴェンコフ、ビエルトはスターリンの10歳以上年下であり、スターリンの手法をよく見て学んだ世代である。第二次世界大戦後数年以内に東欧諸国で共産党一党独裁政権を誕生させ、スターリンが死去すると徐々に失速し、スターリン批判の後に失脚(または死去)した(ルーマニアのゲオルギウ=デジだけはうまくスターリン批判をかいくぐり、1960年代まで権力の座にいることができた)。 彼らは、ミニスターリン代表格と位置付けられる。
3.ミニスターリンたちにとって、師であるスターリンの死は大きな問題であった。そんな中、ホッジャ、ウルブリヒトはスターリン批判、ソ連の新しい指導部の政治路線変更をうまくかいくぐり、権力の座にいることができた人物であった(ノヴォトニー 、ジフコフはスターリンの死以降に権力を掌握した人物である)。スターリンの死以降はスターリン時代ほどの恐怖政治が布かれていたわけではないが、徐々に東欧社会に吹き始めた新しい自由化の風に抗い、スターリン時代の旧体制のやり方を固持しようとした指導者たちである。
4.チャウシェスク 、ホーネッカーが権力の座に就いたのは1960年代、1970年代であるが、個人崇拝を強要したり、共産主義のイデオロギーにしがみつこうともがき、最終的に東欧諸国の体制転換まで権力の座にいた人物であった。
5.チトーをミニスターリンとするには賛否両論があると思う。しかし、西側諸国によってつくられた「スターリンに対して自らの意見を貫き、スターリンと袂を分けた模範的な国家元首」としてのチトーの像は、ユーゴスラヴィア崩壊から30年以上が経った現在は否定されつつある。モスクワで訓練を受け、党の指導者となるためにユーゴスラヴィアの「同志」たちを粛清して死に追いやり、第二次世界大戦後には多民族国家を統治すると同時に自らの権力を維持するためにテロ的手段を用いてユーゴスラヴィアを治めたチトーは、やはり独裁者でありスターリン像と重なる。本書では、モスクワ仕込みのプロの活動家・独裁者としてのチトーを形成したであろう幼少期からコミンテルン時代のチトーに着目した。反スターリニズムを掲げるミニスターリンの矛盾を感じ取ってほしい。

これ以外の東欧諸国の体制転換以前の指導者については、強権的で残忍な統治手段を用いた独裁者である「スターリン」の名を用いて紹介するには乱暴すぎるという観点から、ミニスターリンとして本書では取り上げない。またスターリンの死後、恐怖政治で締め付けられていた東欧諸国の社会が徐々に緩まっていく時代の指導者たち(特にノヴォトニーやジフコフなど)を「ミニスターリン 」と呼んでしまうのは強すぎて抵抗があるが、そこは東欧の歴史の入門書として東欧各国の指導者たちを「ミニスターリン」の括りで取り上げた本として大目に見ていただけたら幸いである。
また本書は東欧諸国のミニスターリンに限定した。筆者が他の地域のミニスターリンに言及するほど知識がなかったからである。そこはご容赦いただきたい。
本書ではそれぞれのミニスターリンたちが活躍した国ごとに章分けをした。それは歴史を研究する者として、政治家個人を彼の国の歴史から切り離して語ることに意味を見出せなかったからである。第二次世界大戦後の東欧各国の歴史の中で彼らがどのような立場でどのような行動をしたのか、それらを紹介していきたいと思う。

では、そもそもソ連の独裁者スターリンはどの様な人物であり、どの様に国を統治したのだろうか。ここで少しスターリンについて触れておく。ここではスターリンが権力の座に就くまでの簡単な流れと、強権的な独裁者と言われる統治手法を紹介したいので、大祖国戦争、第二次世界大戦の経緯や第二次世界大戦後の冷戦の状況などは割愛する。

ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)
スターリンは1878年12月18日、ロシア帝国の統治下であったグルジア(ジョージア)のゴーリで生まれた。両親とも労働者の家系であった。スターリンというのはペンネームであり、本名はヨシフ・ジュガシヴィリというが、本書ではスターリンで統一する。
スターリンはトビリシの神学校に通った。この学校で生徒の間で秘密裏に読まれていたカール・マルクスの『資本論』と出会い、徐々に熱心なマルクス主義者となっていった。間もなく神学校を辞め、革命家の道を進んでいくことになるのである。
1900年代に入ると、メーデーなどのデモ活動に加わるようになる。1901年11月には、ロシア社会民主労働者党のトビリシ支部委員に選出された。その後数回デモを組織し、1902年、ついに逮捕され、翌年にはシベリアへの流刑が宣告された。
スターリンはシベリアへ送られるがそこから脱走し、トビリシに戻ることに成功した。スターリンが流刑されている間、ロシア社会民主労働党はユーリー・マルトフ率いるメンシェヴィキとレーニン率いるボリシェビキに分裂していた。スターリンはボリシェヴィキ側につくことにしたのである。そしてスターリンはその後、断続的に逮捕・逃亡・再逮捕を繰り返すアクティブな活動家になっていくのであった。また、スターリンが最初に党の中央委員に選ばれたのは1912年である。スターリンはこれ以降、生涯にわたり党の中央委員会のメンバーであり続けた。
スターリンが頭角を表すのは1917年の革命時であった。第一次世界大戦中の1916年、スターリンは流刑地のシベリアにいたが、他の流刑者と共にロシア帝国軍に招集された。しかし、子供の頃に事故にあったことによる腕の障害が認められ、軍への招集は免除された。そんな状況の中、首都のペトログラード(現サンクト・ペテルブルク)で二月革命が勃発したのである。スターリンは革命が起こった直後にペトログラードに向かった。ペトログラード・ソビエトの執行委員会におけるボリシェヴィキの代表に任命され、その後に行われた党中央委員会の選挙ではレーニン、ジノヴィエフ次ぐ票数を獲得し、党内で高い地位を確立していったのである。

レーニン政権下におけるスターリンの活動
1917年10月、レーニンが新しいロシア政府(人民委員会議)の指導者の座に就くと、スターリンはレーニン・トロツキー・スヴェルドロフと共に首脳部の一角を担った。スターリンはこの時秘密警察機関チェーカー(ВЧК:日本語ではチェーカーと表記されるが、正しくはヴェチェカー。「反革命・サボタージュとの闘争のための全ロシア非常委員会」である)設立を支持し、その後にチェーカーによって行われた激しい赤色テロも擁護した。ロシア内戦時、スターリンはロシア南部に派遣されるが、そこでスターリンの残忍さが露わになる。白軍との戦う赤軍兵士を指揮する一方、現地のチェーカーに指示し、反革命分子の疑いがある者を裁判なしに処刑したのである。この時スターリンの採ったテロ的手法はボリシェヴィキ首脳陣が許容する範囲を超えていた。1919年3月の党大会で、レーニンはスターリンがロシア内戦時にとった手法を批判している。しかし、スターリンの残虐性はこの後も変わることはなかった。

スターリンの党書記長就任とレーニンの死
1922年、第十一回党大会において、スターリンは党の書記長に任命された。しかしこの頃からレーニンとスターリンは様々な面で対立することが多くなってゆき、レーニンはスターリンを粗暴であると評している。そんな中、1924年1月レーニンは死去した。この後、スターリンはレーニンの後継者をめぐる争いに勝利し、権力を掌握する。そして迅速な工場化と経済の管理、農業の集団化を強制的に推し進めてゆき、1936年以降の大粛清を経て絶対的な権力を掌握するようになるのである。

スターリンの大粛清
全連邦共産党(ボリシェヴィキ)党内の幹部だけではなく、一般党員や文化人、学者などの市民もその犠牲となったスターリンの大粛清は1930年代後半にその最盛期を迎えた。スターリンの大粛清の犠牲者の数は諸説あるが、死亡者の数は約200万人と推定されている。この大粛清が起こった要因としては、スターリンが絶対的権力掌握を達成すること、そして、スターリン個人の強い猜疑心からくるものであったとされている。
レーニンの時代、秘密警察機関であるチェーカーが置かれ、反革命分子を摘発し、処刑していった。レーニンの元でも党員の点検、「チーストカ(粛清:чистка)」が繰り返し行われていた。秘密警察機関チェーカーが時を経て1934年に内務人民委員部(Народный комиссариат внутренних дел)直属の国家保安部(Главное управление государственной безопасности)となり、1930年代後半のスターリンの大粛清の立役者となるのである。この機関がソ連国内各地に設置されたことにより弾圧の対象は市民へ拡大していった。
1934年12月、スターリンの代わりになりうる人物と目されていたセルゲイ・キーロフ(Сергей Киров:1886~1934)がレニングラード(現サンクト・ペテルブルク)の党本部で射殺された。この事件が後の大粛清の契機となったのである。キーロフとスターリンの間には確執があり、しばしば意見を衝突させていた。キーロフは一部の党員からは支持されており、スターリンの権力の基盤を揺るがしかねない人物であったようである(しかし、このキーロフ暗殺事件にスターリンが直接関わっていたという証拠は見つかっていない)。スターリンを始めとする共産党指導部は、キーロフ暗殺の後ろにはに大きな陰謀があると主張し、反対派に対する弾圧を強化していった。そしてこれが1936年8月に行われる第一回モスクワ裁判に繋がっていく。
第一回モスクワ裁判は、レーニンの晩年から政治局でスターリンと共にトロイカ(三人組)として活躍していたレフ・カーメネフ(Лев Каменев:1883~1936)とグリゴリー・ジノヴィエフ(Григорий Зиновьев:1883~1936)などの大物革命家たち、また、この時すでに失脚していたレフ・トロツキー(Лев Троцкий:1879~1940)の仲間たちを含む16名が被告人として法廷に立たされた。彼らは「トロツキーと組んでキーロフ暗殺事件を実行した」として銃殺刑に処されたのである。また、これに連動して逮捕・拘束されていた約5000人のレニングラード共産党支部の関係者もこの裁判後に銃殺刑に処された。この後、粛清は範囲を広げて激化していったのである。この後、第二回モスクワ裁判(1937年)、第三回モスクワ裁判(1938年)と計3回の大規模な見世物裁判が開かれ、反対派の古参党員は粛清された。
この大粛清を実行していたのは内務人民委員部であったが、その長官はゲーンリフ・ヤゴーダ(Генрих Ягода:1891~1938)であった。しかし、彼の働きはスターリンのお眼鏡にかなわず、第一回モスクワ裁判直後に更迭された(ヤゴーダはその後1938年に第三回モスクワ裁判にかけられ銃殺刑に処された)。後任にニコライ・エジョフ(Николай Ежов:1895~1940)が就いたことで更に粛清に拍車がかかった。内務人民委員部の「ヤゴーダ派」は一掃され、エジョフ派で組織が固められていった。エジョフと組んだスターリンの大粛清は、文化人、学者、市民にも広がり、相互監視と密告が蔓延る社会になっていった。更に、粛清はソ連に亡命しているコミンテルンの外国人共産主義者も例外ではなかった。ハンガリー人共産主義者クン・ベーラやユーゴスラヴィア共産党、ポーランド共産党の指導者たちの多くもこの時の粛清の犠牲となったのである。しかし、皮肉なことながら、1938年末になると、今度は粛清の矛先がエジョフに向いた。エジョフはその内務人民委員部長官の座をラヴレンチー・ベリヤ(Лаврентий Берия:1899~1953)に奪われ、1940年にスターリン暗殺を企てたとして銃殺刑に処されたのであった。それ以外にも粛清を実行した内務人民委員部関係者たちの多くも、このスターリンの大粛清の犠牲になったのである。

スターリン憲法の制定
1936年12月、スターリンは新憲法を制定した。スターリン憲法と呼ばれるものである。ここに党の指導的役割が明記され、一党制が正当化されたことになった。

グラーグ(ГУЛАГ)
グラーグとは厳密に言うとソ連の強制労働管理機関のことであり、強制労働収容所自体を指す言葉としても用いられる。1923年から1929年までは白海オネガ湾に浮かぶソロヴェツキー諸島にあるソロヴェツキー強制労働収容所が唯一の強制労働収容所であった。1929年、一般の労働者たちが行きたがらない場所に強制労働収容所を作ることを決定し、ソ連全土に強制労働収容所が置かれるようになった。そして1934年、強制労働収容所が内務人民委員部の強制労働管理機関の管轄下に置かれるようになった。
この強制労働収容所の設置はソ連の工業化と農業の集団化に大きく関係している。工業化のためには労働力確保が必要であり、そのためには刑に服した人を労働力として使うのが都合がよかった。そして、農業の集団化を進める過程で多くいた、集団化に反対する農民、特に富農(クラーク)たちを強制労働収容に送ったのである。スターリンの死後の1953年に縮小され始めた。1953年までにソ連全国のグラーグに収容された総数は1800万人を超えるとされている。

個人崇拝とプロパガンダ
広大な多民族国家であったソ連では、国民にスターリンの「偉大な指導者」像を植え付ける必要があった。スターリンを賞賛するポスターや映画が数多く作られた。スターリンが偉大な共産主義指導者であるレーニンと近しい関係であったかの様に見せるため、レーニンとスターリンが並んでいるシーンの絵画が描かれた。写真の加工(改ざん)も盛んに行われており、好ましからざる人物、粛清された人物は写真から削除された。また、スターリンの銅像がレーニン、マルクス、エンゲルスの銅像と共に大量に作られ、様々な場所に設置された。
レーニンの遺体には防腐処理がされレーニン廟に安置された。レーニン廟を含む赤の広場周辺は共産主義の聖地とされるようになり、レーニンも共産主義の象徴として個人崇拝の対象とされた。1953年にスターリンが死去すると、スターリンの遺体にも防腐処理が施され、レーニンと並んでレーニン=スターリン廟に安置された(1961年にスターリンの遺体のみ撤去され、レーニン廟の後方、クレムリンの壁に沿って置かれた墓地に革命の功績を残した英雄と共に埋葬されている)。
個人崇拝の一環として、国内外問わず多くの街にスターリンの名が付けられた。一例をあげると、現在のヴォルゴグラードはスターリングラード、ポーランドのカトヴィツェはスタリノグロード(Stalinogród:1953~1956)、ハンガリーのドゥナウーイヴァーロシュはスターリンヴァーロシュ(Sztálinváros:1951~1961)などと呼ばれていた。フランスやイタリア、イギリスなどの西側諸国の街にもスターリンの名を冠した道があった。

著者プロフィール

木村香織  (キムラ カオリ)  (著/文

1980 年埼玉県生まれ。法政大学法学部政治学科卒。モスクワ大学大学院歴史学部二十世紀の祖国史学科修士課程修了(2008 年)、同大学院南西スラヴ史学科博士課程修了(2013 年)。歴史学博士(Кандидат Исторических Наук)。ロシア科学アカデミースラヴ学研究所研究員。専門は第二次世界大戦後のソ連・東欧史(ハンガリー・ユーゴスラヴィアを中心に)。主な著書・論文に、『亡命ハンガリー人列伝ーー脱出者・逃亡犯・難民で知るマジャール人の歴史』(パブリブ)、「モスクワの計画の中でーーコミンフォルム派ユーゴスラヴィア政治亡命者たちの反チトー・キャンペーンにおける役割(1948年から1954年)」(『法学志林』117巻第3・4号、2020年)「コミンフォルム派ユーゴスラヴィア人政治亡命者たちのハンガリーにおける活動ーーハンガリー政府との関係と反チトー政治キャンペーン 1949 年~ 1954 年」(露文)「1940 年から1950 年代におけるハンガリー・ユーゴスラヴィア外交関係」(共著、露文)、「ハンガリー・ユーゴスラヴィア国際関係における少数民族問題」(露文)がある。

上記内容は本書刊行時のものです。