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神道心象水墨画集
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2025年2月11日
- 書店発売日
- 2025年2月20日
- 登録日
- 2025年1月22日
- 最終更新日
- 2025年2月13日
紹介
50年余、神主として神道を研究してきた著者が、心に感じ取った「眼に見えないもの」を水墨画で表現した本邦初公開の画集。加えて神道の精髄を論考。
目次
一 自 序
芸術は宗教の母
目に見えないものを求めて
水墨画の醍醐味とは
神観念を心象画として表現
神の存在に近づく
二 かむながらの道
神道とは
自然の氣を動かす
神社神道
「カムナガラ」ついて
日本は陽の氣が充満している土地
三 我が国の氣の感覚
運氣のこと
氣の話
四 氣の表現と芸術
「道」の修行
仏教が唱える三つの世界
水墨画の世界
骨法用筆と氣韻生動
氣を画に描く
筆墨の氣
五 作品集
⑴ 舞楽 蘭陵王
⑵ 龍図 龍と神仙道
⑶ 中国の神仙思想
⑷ 高天原神話
① イザナギ・イザナミ神話
② 天の浮橋
③ 天之瓊矛
前書きなど
芸術は宗教の母
水墨画に「氣韻生動《きいんせいどう》」の言葉があります。同じく琴《きん》には「高山流水《こうざんりゅうすい》」「知音《ちいん》」という言葉があります。この言葉に相通じるのは「造化《ぞうか》の究極」です。
造化の究極とは、創造主「神」を表した言葉です。その究極を表現したものが芸術です。そこで芸術は「宗教の母」と言われています。自然界の中から神を見出し、それを表現するのが芸術です。
創造主「神」が作り給うた森羅万象《しんらばんしょう》。自然の中で目に映し出されるもの、耳から聞こえてくるもの、頭の中で想像する他に、六感での芸術を表現してきました。
私達は我々の遠い先祖より受け継がれた「神」の表現に想像力を発揮して、現在に至るまでに素晴らしい芸術を作り上げてきました。
目に見えないものを求めて
東洋には東洋絵画の精粋である水墨画あり、琴《きん》には「知音」という諺《ことわざ》があるように音で情感を表現する伝統文化があります。
私は神主として「神」という存在を見つめ、これまで神の存在を表すものとして、そこに哲学を投げかけてきました。
そこで、私の心の中の神に宿った命題の「『神』とは」という哲学、即ち「?」クエッション、分別できない、分からない存在に近づく為に、目に見えぬとも確かに存在する何かを追って二十代半ばより水墨画を習い、三十代初めに幻の楽器、幻の音ともいわれた須磨琴《すまこと》ともいわれる一弦琴《いちげんきん》を習いました。
これらを習った一つには神主として神明奉仕するための精神向上の為でもあります。
神に奉仕するのに、神を如何に見出すことができるかというテーマから、これ迄学習した東洋思想と重なり、十代で書いていた彩色画から陰陽の白黒の世界である水墨画に惹かれていきます。
神の姿は目に見えない存在です。
それならば白黒の世界でそれを見出す事が出来ないかと、色のない世界への脱皮です。まさに「水」という透明な液体の中に黒の墨色を落とすことより形あるものへと変化していきます。
この「水」と「墨」の表現は実に面白い。水と墨の世界であるがゆえに、絵が出来上がるまでに色々と変化していきます。
水墨画の醍醐味とは
私は水墨画に私なりの哲学をもっています。私達が住んでいるこの浮世の世界はもともとは白黒の世界なのではないかと・・・・。
それというのも、景色を近くで見る時は、形状がはっきりして多彩な色彩が目に入ります。それが徐々に距離をおき、遠ざかることにより、それまでに目に入った色彩から離れて、やがて色彩が消され白黒の世界になります。
遠くの山々、遥かかなたの海原の遠くを見た時に、山の緑、草花の色彩、海の青色が見えますか。遠く遙かな色は、黒と白に見えるはずです。自然界の究極の色彩はここにあります。
「墨に五色あり」
と言います。中国九世紀の晩唐時代にいた美術家張彦遠《ちょうがんえん》は、
「運筆《うんぴつ》によって墨は五色を具《そな》える」
と言っています。五色とは青、白、紅、黄、黒を指します。又、六彩ありとも言います。
白黒の水墨画は色がついていません。その絵を見た人がその時の心境によって自由に自分だけの色を付けることができるというのが水墨画の醍醐味ではないかと思っています。
「墨に五色あり」
とは、水墨画を見た人の心境によってその時々に至って心の色が映し出されるものではないでしょうか。
例えばリンゴ一個の白黒の水墨画を見た時に、そのリンゴが見る人によって赤であったり、青、黄色であったりするわけです。又、古いのか、新しいのか、それは見る人によって違うと思います。白黒の世界にその人の、その時の心境によって色々な多彩な色付けができるのです。
水墨画が彩色画と違って精神絵画であるというのはそこにあるのではないでしょうか。現世の色で決めつけられないという面白みが水墨画の世界にはあります。
彩色画は華やかで美しい、一般の人にも分かり易くそれなりの美観を楽しませてくれます。
一方、水墨画は白と黒です。白と黒の世界あればこそ、白黒の水墨画を鑑賞した人が、その時の自らの心の心境によって、その水墨画にその人なりの色を付けることができるのです。
鑑賞した水墨画にその人なりの今の氣持ち、心情、感情で見ることができるのです。水と墨の世界ならではのことです。
神観念を心象画として表現
色々に色飾る色彩感覚豊かな現代社会の中で、人々は眼に入る色彩に左右され右往左往して心乱れる「現実」があります。心落ち着かない精神状態で〝我〟を忘れているのです。いわば心身症の原因がそこにあります。
そういった社会で精神を落ち着かせる精神作用の一つに絵画鑑賞があります。その中でも色彩のない水墨画は鑑賞する人の心を落ち着かせてくれます。
現代の騒々しい電子音の流れる社会の中であればこそ心静めるのに適しているのかもしれません。
このような精神的な事を踏まえて、これまでの神明奉仕《しんめいほうし》の精華《せいか》を水と墨で心象画《しんしょうが》(神象画)として神を見出すべく絵画の創作活動をしていきたいと思います。
心象画は心の中のイメージの画です。現実ではなく心の中に思い描いたり、浮かんだりしたものをモチーフとして描いた絵画を言います。
その第一作目が「天之瓊矛《アメノヌボコ》」です。本書には、水墨画作品と合わせて、神道用語と併せて神話を記載いたしました。絵画つきですので、よりよく神道学並びに神話がお分かり頂けるものかと思います。
神の存在に近づく
私の郷土長崎市出身の画家、須加五々道《すかごごどう》の言葉に、
「絵画はモチーフ(心)とテーマ(表題)が同居しますが、私は気品の高い作品を制作したいと自らに言い聞かせて描いています」
があります。
その言葉に私は感動を覚えます。私が求める画も同じく気品を持たせる絵に務めておりますが、これまで仕事に追われて絵画に打ち込めなかったこともあり、精神的な言葉として、これから新たに目指していく指針とするものです。
私がこれまでの人生でやり残してきた志半ばの絵画を楽しんでいきたいと思います。七十歳過ぎにして不惑の信念です。
人間と言うもの、若い時は力で押していくものですが、年を重ねると共に人間枯れてくるとこれまで生きてきた知識、教訓が生かされてきます。亀の甲より年の功でしょうか。頼るものが神佛の世界に委ねていく事により、神の存在が分かりやすくなってくるのかも知れません。
合氣道《あいきどう》創始者の植芝盛平《うえしばもりへい》も、本当に合氣道の「氣」が分かってくるのは六十歳。七十歳を過ぎてからであると述べておられます。
若い時、壮年期は力が余りすぎるので、ついついw力に頼りすぎると言っています。
まさしくその言葉が当てはまるのかも知れません。若かりし頃は何も怖くありません。充足したエネルギーに満たされています。そこで私も、人生を横着に生きてきました。年を取ると力に頼るわけにはいきません。自ずと目に見えない存在にいつしか手を合わして生きている喜びを感じていくものであります。その合わさった掌《たなごころ》の中に光明が宿るものなのでしょう。
版元から一言
半世紀に渡り、神主として「神」という存在をみつめ、到達した境地を水墨画で表現した、本邦初公開の水墨画集。
上記内容は本書刊行時のものです。