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受苦の時間の再モンタージュ
原書: REMONTAGES DU TEMPS SUBI L’ŒIL DE L’HISTOIRE, 2
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2017年5月
- 書店発売日
- 2017年5月12日
- 登録日
- 2017年5月8日
- 最終更新日
- 2017年6月26日
紹介
ヴァールブルクの図像アトラスにベンヤミンのヴァーバル・モンタージュ、ファロッキ、ゴダール、ボルタンスキーのインスタレーション、これら記憶の芸術がその盤上でダンスをくりひろげるモンタージュの映出盤に像を結ぶ生成の流れにおける渦、すなわち根源が求める形象たちを、世界を理解する道具として、再解釈し、再認識し、再評価し、再モンタージュし、可視と見えて不可視なものを可視化する!
目次
Ⅰ 収容所を開き、眼を閉じる──イメージ、歴史、可読性
イメージと歴史の可読性
証拠 場所の状況に眼を開く
試練 時間の状況に眼を開く
憤激 殺人者の眼を開く
尊厳 死者の眼を
歴史とイメージの可読性
Ⅱ 時間を開き、眼を武装する──モンタージュ、歴史、復元
打ち砕く(世界の暴力を
学び直す(全方位に)
とりもどす(手で)
断ち裂く(モンタージュによって)
返す(しかるべき者に)
理解する(世界の苦痛を)
補 遺1 辱められた者が辱められた者を見つめるとき
補 遺2 大きな死のおもちゃ
書誌ノート
原 註
解説 記録と記憶──ディディ = ユベルマンとイメージの可読性 松井裕美
訳者あとがき 森元庸介
人名/著作名/美術作品名 索引
版元から一言
本書は、Georges Didi-Huberman, Remontages du temps subi, Paris, Minuit, 2010の全訳である。本書はまた、同じ著者による「歴史の眼」シリーズ(二〇一六年時点で第六巻まで刊行)の二巻目にあたる。
著者ジョルジュ・ディディ = ユベルマンの名は、美術史家としてのみならず思想家としても言及されることがしばしばである。それは、美術作品を論じるかれの仕事の根底に、つねに方法ということを思想的に問い直す姿勢があるからである。それゆえにまた、かれはヴァザーリやヴィンケルマン、パノフスキーといった伝統的な美術史の礎を築いた先人たちに厳しい批判の矛先を向けもする。
ディディ = ユベルマンを美術史という分野にそれでもなおつなぎとめるのはアビ・ヴァールブルクである。その理由は、逆説的なことにヴァールブルクが美術史を動揺させる存在であるからにほかならない。現在に作用をおよぼす力として過去を「召喚」しようとするヴァールブルクの試みは、現在と完全に分断された動かしようのない事実として過去を検証する歴史学とは対極の位置にある。
本書を含めた「歴史の眼シリーズ」を貫いているのは、こうした方法論的批判に基づくイメージ読解の実践をとおして、あらためてイメージ分析の方法に関する考察を深めようとする試みである。たとえば「歴史の眼シリーズ」第三巻『アトラス、あるいは不安な悦ばしき知』(伊藤博明訳、ありな書房、二〇一五年)で実践されたのは、アーカイヴや図書館の資料を、単なるデータ(「所与のもの」)ではなく見いだされたオブジェとして同一平面上に並べることによって、つねに既存の体系を揺るがすような過剰さを有する「アトラス」を作成するという試みであった。こうしたアトラスの作成は、ヴァールブルクの描いた地図を単に広げるだけの行為を超え、新たな〈地形〉を築く作業となる。
また、「歴史の眼」シリーズ第一巻『イメージが位置をとるとき』(宮下志朗・伊藤博明訳、ありな書房、二〇一六年)では、同様の作業がイメージに位置をとらせる(立場を表明させる)こととして理解される。そこでは、歴史的事実を客観的に伝えるイメージではなく、特定の場所を新たに与えられることではじめて歴史のなかで位置をとる(立場をとる[prendre position])ようなイメージが論じられた。問題とされるのはイメージに対する言葉の優位、あるいは言葉に対するイメージの優位といったことなのではなく、言葉と映像から想起される異なるイメージの効果的な結びつきのなかではじめて認識可能となるような、過去の「たしかにあったこと」に眼差しを向ける作業である。そうした一連の作業を、ディディ = ユベルマンはブレヒトの『戦争案内』や『作業日誌』のなかに読みとる。
ディディ = ユベルマンは、こうした作業により過去のイメージを忘却から救うことを、わたしたちに課せられた責任ととらえる。カメラによる記録映像は、口承や記録文書の引用とは別の次元で歴史的な真実を探るための出発点となる資料であり、その意味において歴史の新たな「目撃証人」である。過去を目撃したこの「歴史の眼」は、時には説明文書や取扱文書をともなった証人として、時にはまだキャプションや説明書きといった言葉を与えられない無言の証人として現われ、ともすれば忘却され消滅の危機にある「歴史の眼のなか」のイメージに向きあい、可視性ないしは可読性を記録映像から引きだそうとするのである。
上記内容は本書刊行時のものです。