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ギネスの泡と共に消えた約束

ある人物と二人で酒を飲んだ夜を、約束の言葉を、今でもはっきり覚えている。
もう15年も経つのに、新宿のあの辺りを歩くといつも決まって思い出す。
深夜の狭いカウンター席に肩を並べて座った、場末の居酒屋の名前は忘れてしまった。

初めてその人物に会ったのはさらに10年ほど前で、最初から印象は強烈だった。
「おい、お前さん、いい目をしてるじゃねえか」
社内のフランクな飲み会で酒も回っているとはいえ、昭和のテレビドラマみたいな芝居がかった台詞を、初対面の若造に向かって恥ずかしげもなく口に出す、鋭い目つきの男。
「なんだ、面白い先輩もいるじゃねえか」
と切り返せなかったのは残念だが、無口で(おそらく)生意気な目をしていた新入社員の私を、古めかしい口調で笑いを誘って場に溶け込ませてくれた、彼の優しさに感謝した。

同じ会社だが別の編集部だったので、それから数年はたまに廊下ですれ違う程度。
ある朝、向こうから派手なアロハシャツ姿の先輩が歩いて来た。
めずらしく彼が立ち止まり「おう、いいの着てるなあ」とニヤリ。
私も、負けないくらい派手な柄のアロハシャツで出勤していたのだ。
世間的にはカタいと思われている会社の、頼もしい〝異質な〟先輩だった。
叩き上げの苦労人で、出版人というよりジャーナリスト然とした気骨のある人。
当時は彼も私も風変わりな長髪の髭ヅラで、同じ部署だったらどんな職場に見えただろう。

しかしそんな機会が訪れる前に、私はその会社を辞めた。
出版の世界から離れて、二十代でやり残していた、無職でなければできない(と思っていた)あれこれに時間を捧げ、好きなことだけをして過ごす自由の心地よさと重さを十分に満喫し、息を整えた。
そして数年後、縁あって別の会社で本を作る仕事に就いた。

先輩と再会したのは、ある大きな出版賞の授賞式だった。
再就職先で企画・編集した写真集がその賞をいただくことになり、有名ホテルの大広間に関係者として参加していたが、生来パーティーが苦手な私は会場の隅で一人、ちびちびとビールを飲んでいた。
そこに、長髪で髭ヅラの、アロハシャツではなく派手なスーツを着た男が歩み寄ってきた。
「おう、久しぶり! なんだ、この本を作ったのは〝きみ〟だったのか」

数分後、早めに会場を抜け出した二人はタクシーに乗っていた。
別の場所で知人の写真展のオープニングパーティーをやってるから一緒にどうだ、と誘われたのだ。
賑やかな酒宴が散会の時間になると、無類の酒好きで知られていた先輩から予想通り、もう一軒行こうぜと声がかかって、適当に選んだ安っぽいチェーン居酒屋に入った。
知り合って10年ほどになるが、二人だけで酒を飲むのは初めてだった。

「なあ、俺はうれしいんだ。〝お前さん〟が出版の仕事に戻ってたことがよお」
すでに泥酔していた先輩は、ようやく懐かしい口調に戻って、そう切り出した。
それからいろんな話を聞いたはずだが、こっちも酔っていたのでほとんど覚えていない。
彼はたしか焼酎のロック、私はクリーミーな泡が載ったギネスビール。香ばしい苦味の。
偶然の再会に始まった長い夜も更け、もう終電だから帰りましょうと促すと、彼はこう言った。

「今日から俺と一緒に飲むときは、お前さんの酒代は俺がすべて払う。一生だ。忘れるなよ」

ふらつきながら一人でタクシーに乗り込み、「また飲もうぜ」と言い残して消えた先輩の約束が果たされたのは、結局その夜の一度きりだった。それから一度も会う機会がないまま、翌年、乾杯の手を伸ばしても届かない遠い世界へ旅立ってしまった。

ずいぶん後になって、知人に「飲み代を一生払ってもらうはずだったのに」とこぼすと「俺も同じことを言われた」と聞き、「あの人らしいよ。酔ったらみんなに約束してたんだな」と笑い合った。たぶん、後輩をまた酒に誘うための不器用な口実だったんだろう。

いつもダンディーで、強面なのに優しくて、知的で、繊細で、愛すべき酔っ払いだった先輩、そっちの調子はどうですか? 結局あの会社も辞めて、環境も立場も変わりましたが、僕はまだ出版の仕事を続けてますよ。あなたが好きだった写真の本も、たまにですが作ってます。

この新しい本、先輩には気に入ってもらえますかね?
写真展もやってるので、深夜にこっそり見にきてください。
今度は僕が酒をおごりますから。

八木 清(編訳・写真)『ツンドラの記憶 エスキモーに伝わる古事

【刊行記念写真展】
八木清作品展「ツンドラの記憶」
2024年1月17日(水)~2月22日(木) PGI(東麻布)

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