コトノハの版元日誌
池上線沿線の街をテーマにした2013年創刊の『街の手帖』
「東京の南、池の近くの本を作る会社」というキャッチフレーズを作って9年。
いまうちでは『街の手帖』という、東京の五反田駅と蒲田駅を結ぶ3両編成の電車・池上線沿線を題材としたローカルな街の本を不定期で発行している。キャッチフレーズの“池”は、この池上線沿線にある「洗足池」のことを指す。渋谷から山手線と池上線を乗り継いで25分ほどの場所に、冬は渡り鳥が飛来し、春には桜が咲き誇る風光明媚な池だ。
『街の手帖』創刊は2013年の3月。創刊当初は、隔月で発行を続けていたが、重なる沿線の書店の閉店が理由で、隔月から季刊、そして現在の不定期と徐々に発行のペースを落としてきたが、決して本の売り上げが下がったということではない。
思いもよらず、『街の手帖』が縁となり東急さんと仕事をさせていただく機会にも恵まれた。2017年、東急さんが池上線沿線のブランディングを始めて、池上線が1日無料で乗り放題という画期的なイベントを開催。同日、池上線沿線での観光名所ならぬ「生活名所ツアー」にはツアーガイドとして参加。建築家・故山口文象の自邸では、沿線とゆかりのあるミュージシャン、リトルクリーチャーズのメンバーである栗原務さんを中心としたライブイベントを行った。『街の手帖』もこのイベントにあわせて特別号を発行し、この時の発行部数は2500部を突破した。ローカルな本の発行部数としては、決して少なくはないと思う。
創刊号は、1冊200円。印刷所から届いた創刊号は1000部。それを、恐る恐る池上線沿線の「ここなら置いてくれるのでは」と思った書店へ直接持って行くという営業活動を行った。この池上線沿線には、14ほどの新刊書店がある。
雪が谷大塚の今はなき「三州堂書店 本店」の坂元店長は、差し出した創刊号をパラパラとめくると、ぜひうちで販売しましょう、と二つ返事で引き受けてくれた。
五反田には、島津山書店と東急五反田スクエアの中に、ブックファースト五反田店がある。当時の自宅兼事務所から五反田のブックファーストにFAXをしたら、翌日担当者から電話がかかってきて「ぜひうちで扱いたい、条件を教えてほしい」と連絡が来た。ぼくは舞い上がりながら「7掛け、委託で結構です」と電話口で答えた。その担当者はお店を辞めてしまったが、いまでもその担当者のことを覚えている。
ローカル文化誌『街の手帖』が誕生した背景
そんな『街の手帖』を出版するコトノハは、ぼくが妻と一緒に2011年の7月に会社として登記した
確か、2010年の末くらいに、たくさん仕事を出してくれていた某出版社の方から、「仕事量が増えてきたので、そろそろ会社を作ってはどうか?」と持ちかけられていたのと、2011年の3月11日を自宅兼事務所で妻と2人で過ごしていたぼくらは、テレビで東北の町が津波に飲まれる映像を見ながら締め切り間際の原稿と格闘していた。福島の原発も大変なことになっていた。いてもたってもいられない気持ちになり、いまこの状況で本当にこの仕事をやらなければいけないのかどうかを担当に問い合わせてみたが、締め切りからは逃れられなかった。その時、2人で「これからはもう、やりたいことをやろう」と話し合い、その年の7月に会社を設立したのだった。
よく人から会社の名前の由来について聞かれるが、「コトノハ」は、ぼくらが言葉を扱う仕事をしているし、大げさにいえば今後も言葉にまつわる仕事をしていくぞという覚悟の表明でもあった。会社を設立する前は、さすがに緊張して「つぶれてしまったらどうしよう」「路頭に迷ったらどうしよう」という思いが脳裏を何度も過ぎったが、振り返ればぼくと妻はそれ以前の2009年にも後先も考えず、それぞれ勤めていた会社を同時に辞めるという肝の座ったことを経験していた(その時、私は八丁堀のデザイン会社でグラフィックデザイナーを、妻は代田橋の編集会社で編集長をしていた)。
2人揃って会社を辞めてみると、不思議となるようになるだろうというどっしりとした気持ちが湧いてきた。それまで4年間住んでいた40平米に満たない池上駅前の賃貸マンションから、仕事場兼住まいとして少し広めの洗足池の賃貸マンションに引っ越しを決めたのだった。
それから2年後、ネットを検索してたまたま見つけた「会社設立センター」という、今から思えばあまり素性のよくわからない会社に電話し、設立の書類を揃えてもらって、あっという間に会社設立とあいなった。
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「やりたいことをやろう」と会社にして2年後、『街の手帖』を創刊したのは、ごく自然の流れだった。
それまで自宅から都心まで通勤していたぼくたち2人は、仕事も家で行うようになると、近所をうろうろと散歩するようになり、少し気になる看板を見つけるとえいやっと入店してみたりするなど生活スタイルはがらりと変わった。
スナックという存在の面白さに気づいたのもこのときだ。このスナックに2日に1日は通うようになり、店に来ているお客さんと話すようになった。
それまでは、お店の人と話すこともなかったが、そんなことを繰り返していると会社や仕事関係者以外の人とのつながりができ、アート好きなママさんと一緒に美術館へ行ったり、寄席を見に行ったりするようになった。夏には、鈴木忠志さん率いるSCOTが拠点としている富山県・利賀村まで、スナックの常連客のSくんの車に乗って皆で行くまでになった。帰りには越中八尾の風の盆に参加したりして、とてもいい思い出となった。
この街にはこんなに面白い人たちがいる。楽しく地元で過ごしているうちに思い立ったことだった。池上線沿線をテーマにした雑誌をつくって、お店から広告をもらって出版すれば、きっとこの街のよさを広めることができるだろうし、きっと興味を持って読んでくれる人もいるはず──そう思い、翌日にはMacに向かって、表紙のデザイン案をいくつか作成していた。タイトルを『街の手帖』に決めるのに、1週間ほどはかかっただろうか。街を歩いて取材して、それを書き込んだ手帖という意味で、肩肘を張らない自由な感じが気に入った。
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振り返ればぼくは20代の半ば(1990年代末〜2000年初頭)に、『salon』という音楽を中心とした雑誌(のようなもの)を、毎回出版社を変えて発行していた。音楽活動もしていたぼくは、渋谷のレーベルからCDを何枚か出してもらっていた時のつながりもあり、取材に応じてくれるミュージシャンやアーティストは結構いたのだった。さらに人脈は海外にまで広がり、ドイツやフランス、オランダなどヨーロッパでも取材をしていたのだが、やがてその雑誌がたどり始めたディープな方向性と当時の自分との間になんともいえない違和感を感じるようになり、あえなく休刊してしまった。この頃を思い出せば、いままで生きてきた中でどん底の時期だったと思う。やりたいことが何だかわからなくなり、”燃え尽き症候群“のような状態になったぼくは、本を編集したり文を書いたりという仕事から離れ、友人のいるデザイン会社でグラフィック・デザイナーとしてゼロからのスタートを切った。それから数年経ち、ローカルな本を作ってみよう、という意欲が湧いてきたのは、先に書いたきっかけからだ。
“伝説”の街の書店との出会いと別れ
『街の手帖』は肩肘を張らない。普通に生活しながら取材・編集を行うスタイルだ。気に入った店に入り、そこでの店主との会話を取材する。街のスナックで営業活動をしている歌手や路上で歌を歌うシンガーを取材する。アベノミクスという言葉が出てきたときには、街で知り合ったタクシー運転手に話を聞いて街の景気を予想してみたりもした。それ以外にも沿線のラーメン店にお願いしてレシピを教えてもらったり、鍋特集では近所のお店の方に協力を仰ぎ、冬におすすめの鍋を新たに考案してもらって実際にお店でメニューとして出してもらったり。
それもこれも発行部数を伸ばすため。日々企画を考え、あれやこれやとやっているうちに、『街の手帖』を一番売ってくれていた雪が谷大塚の「三州堂書店 本店」が閉店してしまうということを人づてに聞いた。店に行き、本当に閉店してしまうのかを店主の坂元さんに確認してみると、それは揺るぎのないことだった。がっくりと肩を落としたぼくを見た坂元さんは、「1日うちの店を自由に使っていいよ」と言ってくれた。それだったらと、ぼくはその書店の裏に住んでいたフォークシンガーの保利太一さんに声がけをして「閉店ライブ」をやってもらうことにした。
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当日、本が1冊もなくなった街の書店の棚すべてに『街の手帖』のバックナンバーを陳列し、まずは店主への贈る言葉を言おうとしたぼくは、感極まって泣いてしまった。1号につき200冊もの本を売ってくれていた書店が、今日なくなってしまう。
ライブには、本を作る中で知り合った人たちが集まってくれていた。また、幼い頃からこの書店で本を買っていたという、現在はバーのオーナーも足を運んでくれていた。
フォークシンガーの保利さんの音楽が始まった。
「ひとりぼっちで寂しい夜には、パッと家を飛び出して、さあ歩こう、輝くこの道を〜」
保利さんの日本語による『明るい表通りで(sunny side of the street)』というジャズのスタンダードナンバーが30平米ほどの店内に響いた。閉店するという悲しい事実はありながらも、これからの坂元さんや坂元さんの家族、そして本を販売してもらっていた自分たちの未来も、きっとこれで終わりということではなく、希望の光が差し込んでくるような歌詞だった。
集まった人たちが静かに歌を聞いていた。1時間ほどの「閉店ライブ」が終わり、ぼくらは店主の坂元さんに花束を渡した。
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ぼくらはいつも『街の手帖』を配本する日の朝、沿線にある14ほどの書店に電話をかけて、納品数を聞いてから本が折れないように大きな手提げ袋に大切に本を入れ、助っ人を含む2、3人で手分けをして池上線に乗ってそれぞれの街にある書店に配本をしてきた。その配本時に、書店主と世間話などをするのもまた楽しいのだ。自分が暮らしている地元ということもあって、あそこにこんな店ができた、あそこが今度こんなことをするよ、などという話が楽しい。明日から坂元さんとはもうそんな会話もできなくなってしまう(以前取材した時の話では、戦後、九州から出てきて最初は蒲田から書店をスタートして、かつては本が売れて売れてしょうがない、という時代があったのだそうだ。この坂元さんのお店は、本が売れないから閉店というわけではなかった)。
坂元さんとの世間話はいつも楽しかったが、最も驚いたのは、ある本を探していた近所の人から問い合わせがあり「うちにはありません」と断ったけれど、どうしてもほしいというので坂元さん自らがAmazonで注文してお客に渡しているという話だった。お店は1円も受け取らず、クレジットカードをネットで使うのが怖いというお客さんに対して、無料でサービスをしているというのだ。ちょっと普通ではありえないような話だ。書店は、本を売るだけではなく、人と人をつなぐ場所でもあるのだろう。それは多分、どんなお店も同じだと思うけれど。
坂元さんの書店でのライブが終わって数日後、「うちのレジがもういらなくなるのでいりませんか?」と言われ、雨の日に車で取りにいった。ちょうど坂元さんの娘さんも来ていた。ぼくは、「もしかしたら今後書店をやることもあるかもしれないので、その時に使わせてもらいますよ」と笑いながら言った。坂元さんの娘さんは、「これから父が暇になるので、なにか仕事でも手伝わせてくださいね」と言ってくれた。
お別れの挨拶をして車に積み、エレベーターのない5階にあるうちの事務所に持って帰った。いまも事務所の奥に、そのレジは残してある。
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2020年3月から世界を席巻したコロナは、新しい雑誌を作って、書店に営業して、という、ぼくがこれまで『街の手帖』でやってきたことがしづらくなっているのではないかなと思う。毎回、本ができたら持っていき、その場で精算をして、という配本の作業については、今後どうするか考えていかなければならない。
新刊『植物癒しと蟹の物語』・今後の展望
その後も、懇意にしてくれていた書店が閉店し、ぼくらは発行のペースを隔月から季刊へと変更した。そして、冒頭に述べた池上線の無料開放イベントなどにもツアーガイドとして参加したりして、ありがたいことに多忙を極め、現在は不定期で発行をしている。
今後は不定期になった代わりに、この本をきっかけにして知り合った人たちの単行本を出版していくことが多くなっていくような気がしている。
昨年の9月末には、かつてピクシブ文芸大賞を受賞した小林大輝さんの『植物癒しと蟹の物語』
という寓話を出版した。この物語は、小林さんが懇意にしていたスクールカウンセラーの娘婿さんががんになったことで、その生きた証を残したいとご家族から依頼されて小林さんが書いたものだ。決してお涙頂戴のお話ではなく、生きるということについて考えさせてくれる完成度の高い短い寓話になっている。当初、小林さん自身が10冊だけ出版した本をたまたま手にしたぼくたちが、本にしたいとお願いして出した本だ。
ぜひ多くの人に手にとってほしいと思う。
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昨年は、コロナ下ではあったけれど、GO TOトラベルを利用して京都と福岡へ営業に行った。飛び込み営業はできないので、事前にアポをとることは必須だ。
2021年が始まってまだ1か月。気分も新たになってはいるけれど、コロナをとりまく大きな社会問題もある時代に、どうしたら本が売れるのか、どうしたら求めている人に求めているものを適切に届けることができるのかを日々考え続けている。
昨年からこれまで歩んできた中で出会った人たちとのつきあいも再開し、今年はそんな人たちとともに新しいことにも挑戦する予定だが、「本」をつくって届けるという、大変だけれども、楽しくて素晴らしい仕事ができていることを、いつも感謝しながら過ごしていきたい。