「感じのいい」アマゾンのことなど
2月某日
アマゾンから電話があった。とても感じがいい。
その電話の前に、メールが来ていた。メールには、小社の出版物のうちの3冊をリストアップし、1年間の売り上げ部数(アマゾンが取り扱う小社の書籍数は
100ぐらいである)が表示してある。それには、月ごとの売上げ部数とともに月ごとの「売り損じ数」のパーセントがついている。平均欠品率は約25%とある。そのなかの一冊はこの一年で350冊以上の売り上げがある「医者は現場でどう考えるか」(2011年)
で、トータルするとアマゾンだけで6刷実売1万2千冊の半数以上を売ってもらったことになる。小社としては、稀なロングセラーである(アマゾンがなければ、ここまで売れなかったと思う)。アマゾンと直取引すれば、その売り損じが無くなりますよ、というメールである。
小社は、今のところアマゾンとは直取引はしていない。アマゾンには、地方小出版流通センターから日販ネット営業部を通して納品されている。センターとは、1981年の小社創業以来の付き合いだから38年になり、取次としてだけでなく人間的な付き合いも長い。
実は、1年ほど前にもアマゾンから電話があった。直取引のお誘いである。その時は、地方小出版流通センターには長年お世話になり「義理がある」ということに加えアマゾンの取引条件がシビアであることを率直に告げて、お断りした。ただ、その時のアマゾンの担当者(青年)の対応はとても感じがよく、数日後再び電話があり、好条件を提示されたが、丁寧にお断りした。この時の私のアマゾンへの印象は「とても感じがいい」ということで、そのことに何かが変わりつつあることを感じたのだ。それまでのアマゾンの対応は「木で鼻を括ったような」というのが、おおかたの印象だったからだ。
今回のメールに対して、私は感謝を述べて、「売り損じについては、センターと日販の関係者とで改善したい」とメールしたところ、折り返し電話があったのだ。そしてこのアマゾンの担当者(青年)は、一括の取引ではなく、個別の書籍についての取引でもいいと提案してきた。その対応もとても丁寧で感じが良かった。
この感じの良さについてもう少し述べると、本来のアマゾン(我々のイメージするアマゾン)ならば、徹底的に合理化と利益最大化を追求して、最終的にはAIによる対応にまで「進化」するのではと思っていたのだ。ところが、現実のアマゾンは、小社のような零細な出版社に対しても、ビジネスライクというより人間的で柔軟な対応をしてきたのである。
もっと細かいことを言うと、小社ですら日に何本かのセールストークの電話がある。おおむね若い女性だが、ハイトーンのマニュアル通りのしゃべり方で、AIのしゃべり方を先取りしているといえる。当方としては、生身の人間と話している気がせず、一言で言えば薄きみ悪い。
ところが、アマゾンの担当者の話し方は、ソフトで柔軟性もあり感じがいいのだ。この感じの良さは何だろうか? 多分徹底的に考え抜かれた感じの良さだと推測するが、それがマニュアルだとすると逆説的に人間的なのである。勝手な解釈だと思うが、AI化を徹底的に追い求めると、人間本来の発声を含めた身体性や心性に行き着くということだろうか。私は、高度情報化社会にあっても最後までネックになるのは、人間の身体性とモノの物性だと思っている。情報(注文)が、電子的に瞬時にやりとりされても、モノやヒトの移動ややり取りはそうはいかない。現に「物流=ヒト・モノ」問題に我々は悩まされている。大津波のようなデジタル化の浪の中で、最大の抵抗線がヒトやモノの身体性や物性であることは、皮肉なことだがこの高度情報化社会の中にあって、最後の希望であるような気もする。
アマゾンの対応の「感じの良さ」に、何かの異変を見ようとするのは、私の深読みに過ぎないのだろうか。
3月某日
熊本で、渡辺京二さんにお会いした。渡辺さんにお会いするのは、石牟礼道子さんが亡くなった昨年2月の葬儀の時以来である。思想史家の渡辺さんは、クリントイーストウッドと同い年で、その創作意欲は衰えることがない。つい最近も、「バテレンの世紀」(新潮社)が、読売文学賞を受賞している。
渡辺さんには、石牟礼さんの全詩集のことで、お尋ねすることがあった。小社では、石牟礼道子全詩集「はにかみの国」
を出版し、詩集としては珍しく3刷3500冊を販売し、現在在庫切れの状態である。石牟礼さんが亡くなられて、ずいぶん注文も来たのだが、2002年に初版を出したあとに書かれた詩やその後発掘された若い頃の作品が続々と出てきているので、出すならば増補改訂版をと考えていた。そんな折、渡辺さんからこの際完全版の全詩集を出さないかと打診があり、願ってもないことと承諾した。編集作業にかかると、400頁を越え、すでに「はにかみの国」(A5判170頁)の倍以上の分量になっている。
現在「石牟礼道子資料保存会」が調査中の石
牟礼さんの遺稿ノートからも詩が発掘されている(新発掘の詩は、熊本で発行されている雑誌「道標」や「アルテリ」にも掲載されている)。渡辺さんによると、200冊を越えるノートのうち調査が済んだのは、まだ50冊程度だと言う。今年の秋までには出版したいとは考えているが、完全版を目指す以上どうなることか・・・。
渡辺さんと初めてお会いしたのは、ほぼ50年前のことである。思えば、あの出会いが、その後の私を決定づけたのかもしれない。それは、1970年の5月のことである。出会いは、渡辺さんに一喝されることではじまった。
1970年の5月25日の日に、東京の旧厚生省で、一任派と呼ばれる水俣病の患者グループが(旧)厚生省の補償処理委員会によって死者400万円(当時ガス爆発事件の死者の損害賠償金は2000万円)で葬られようとしていた。熊本にあった水俣病裁判の支援組織「水俣病を告発する会」は、それを「全存在をかけて実力で阻止する」ことを決め、その東京行動のための会議が開かれることになり、誘われて私も出席したのである。
いわゆる全共闘世代の学生だった私は、白熱する会議を聞いていて、余計なことを口走ってしまった。「全存在をかけるなんて、できませんよ」と。すると間髪を入れず怒鳴り声が返ってきた。
「小賢しいことを言うな! これは浪花節だ!」
その声の主が、渡辺京二さんだと知るのは、また後のことだが、「何だ、このおっさんは」と思いつつ、その言葉は、私の脳裏に鮮明に刻み付けられた。多分渡辺さんは、私のことを「学生運動で小理屈を覚えた阿呆」と思われたはずである。
行きがかり上ではあったが、結果として私は東京行動に参加することになり、補償処理委員会の斡旋を阻止するために旧厚生省の一室を占拠するグループの一員となり逮捕された。実は、石牟礼道子さんの「苦海浄土」を初めて読んだのも、東京へ行く夜行列車の中だった。
その後水俣病闘争に関わることになるのだが、数年を経て渡辺さん、石牟礼さん、松浦豊敏さんの責任編集で『暗河(くらごう)』という雑誌を出すことになった。その雑誌の編集を手伝うことで、編集のイロハを学ぶことになったのだが、私がその後45年間にわたり編集・出版に関わることになったのは、あの渡辺さんの一喝があったからだと思っている。
3月某日
私が編集・出版に関わって45年になる。活版の時代から、写植、電算写植、そしてデジタルの現在を体験した最後の世代といえる。
私が石風社を創業した1981年の書籍・雑誌の業界売上げは、1兆4、5千億円であった。そしてピークの96年が2兆6千5百億ほどである。昨年の売上げがデジタルを入れて1兆5千4百億ぐらいだから、この37、8年で業界売上げは、96年を頂点にきれいな山型を描いていることになる。つまり業界売上げは、この40年で元に戻ったわけだ。ちなみに1兆円に達したのが1976年で、2兆円に達したのは、1989年である。
この山型のグラフを見ると、雑誌の売上げの推移は富士山のように逆V字だが、書籍は比較的なだらかなカーブで下降している。つまり雑誌=情報・エンタメはデジタル化の波をもろに被り、書籍=知識・思考はいくらかその波に抗しているということか(書籍の中でもガイドブック=情報はデジタルの波を被っている)。
小社はもっぱら書籍の出版を続けているのだが、2、30年前と現在で明らかに違うのは、初版部数である。当時は、初版2000部〜3000部発行していたのだが、現在では1000部〜1500部である。例えば1995年に「水俣病事件と法」(A5判 482頁 本体価格5000円)を初版2000部で出したのだが、東京の専門出版社の社主から、「うちなら初版700部、定価8000円以上で出す」といわれた。実際この本の実売部数は1000部ほどで(良く健闘したほう)、残部は断裁せざるを得なくなった。
いわゆる堅い本については、東京の中堅出版社よりも初版部数を多く刷らざるを得ない事情があった。これには福岡(九州)の製本事情がある。福岡の印刷・製本事情をいうと、印刷費と印刷技術は東京と遜色ないのだが、製本代(特に上製)が東京の2〜3倍したのだ。たとえば、46判300頁ほどの上製本の製本代が、東京だと100円前後なのに、福岡だと200円から250円するのだ。つまり原価計算上、東京の倍以上刷らないと同じ定価に出来ないのだ(詳しくは、拙著「出版屋の考え休むににたり」
をご笑覧ください)。
ところが、10年前から事情が変わった。印刷所へデジタルデータで渡すようになると、印刷所の地域的制約が霧散した。現在小社の上製本は、全て東京の印刷所でやるようになっている。ちなみに、新刊「野村望東尼 姫島流刑記 「夢かぞへ」と「ひめしまにき」を読む」
(A5判540頁)は、初版1000部で定価3800円+税である。先の「水俣病事件と法」とページ数、定価、発行部数を比較して欲しい。小社としては、デジタル化と製本代の低下によってずいぶん身軽になったのである。
某月某日
閑話休題。
私は、事務所にバスで通っている。自宅から30分以内で行ける。福岡は、コンパクトな街なので、酒を飲んで遅くなってもタクシーでも千円前後で帰れる。最近は、近所の立ち飲み屋(角打ちという)で飲むことが多くなったので、飲み代が安くなった上に、歩いて帰れる。立ち飲み屋というのは、客層がまちまちである。わりに多いのが手に職を持った人で、濃い人間が多い。年齢層は高く、男女とも5、60代、最高齢は、86歳のおばあさん。旧制の高等女学校を出たインテリである。
角打ち屋だと人はすぐに打ち解ける。1、2度会うと、自分のことを何でもしゃべり始める。私は、椅子の高さで、飲み屋の客の親密度は変わると思っているのだが、立って飲むと人は何でも喋りたくなるものらしい。それで分かったのだが、×(バツ)の付く人が多いのだ。客の×1率は5割強で、×4の猛者もいる。
ただ中には、打ち解けずに誰とも話さない客もいる。その客は、50歳ぐらいの品のいい紳士であった。来ると必ず文庫か新書を読む。一心不乱に本を読んでいて、全身から「俺に話しかけるな!」オーラを出している。角打ち屋でそれはないだろうと思いなが見ていたが、ある日隣の席になった。何としても話しかけようと考え、言葉を選んだ。「何を読んでるのですか」と尋ねれば、「お前の知ったことか」といわれると思ったので、「集中出来ますか?」と声をかけた。するとその紳士は、「酒が進むと、なかなか出来ませんね」と答えて、一挙にバリアが消えた。おまけに、前記のおばあさんが、彼の出身校の大先輩だと分かると、さらに堰が切れて郷里の話で満開の桜のようになってしまったのだ。
帰り際に、名刺をくれたので見ると、精神科クリニックの院長と書かれていた。