福岡を本の街に―—ブックオカ12年目の秋に
「 藤村さん、“一箱古本市”って知ってる? そう、東京の谷根千界隈で始まった古本の路上フリーマーケット。ああいうお祭り的なイベントをね、福岡でもやれたらいいなって思うんですよ」
今から11年前、2006年の春先のことである。福岡・赤坂の個人書店「ブックスキューブリック」の店主・大井実氏が、やおら熱く語り始めた。場所はキューブリック近くの小さな立ち飲み屋。メンツは大井氏と私、それにネットで古書店を営む女性の3人だった。酔っ払うにはまだ早い時間だったように思う。
「確かに面白そうだけど…お客さんが来ますかねぇ……」
大井氏は以前から「半径1.5㎞以内のお客を相手に(書店を)成立させたい」、「街のコミュニティーづくりには本屋が不可欠」を持論にしていた。ご存じの方も多いと思うが、“一箱古本市”は2005年からライターで編集者の南陀楼綾繁さんや往来堂書店の笈入建志さんを中心に活動を始めた「不忍ブックストリート」の企画である。私も前に業界紙で記事を目にしていたし、このところ若い世代を中心に、古本の世界に新しい風が吹きつつあることを興味深く思ってもいた。
「福岡はお祭り好きの土地柄だし、きっと盛り上がりますよ」
「そ、そうですねぇ…じゃあ1回やってみましょうかねぇ……」
自信に満ちた大井氏に半ば引きずられる形で了承したものの、自分の読んできた本を人前にさらすことにはどうも抵抗があったし、同時に、ただでさえ低迷している本というメディアを打ち出したイベントが、福岡という地方都市で果たして成功するだろうかという危惧もあった。果たしてイベント屋でもない自分が、こんなことに首をつっこんでしまっていいものだろうか。
*
思えば、ここに至るまでの「伏線」はあった。私は以前、同じ福岡の石風社という版元に在籍していて、2000年から『はかた版元新聞』というフリーペーパーの編集・制作を担当していた。福岡には当時、“地方出版の西の横綱”と呼ばれた葦書房を中心に10数社の版元が割拠しており、営業担当者が書店店頭で鉢合わせをすることも多かった。それぞれの用事を済ませると決まって近くの喫茶店で一服となり、それが貴重な情報交換の場でもあったのだが、口をついて出てくるのは景気の悪い話ばかりだった。
私はまだ20代だったし、他社の先輩営業マンの話に相槌を打つ程度のことしかできなかったのだが、そのうち、この状況を座視するばかりの自分に対するモヤモヤもあって、何かアイディアはないものかと考えるようになった。ちょうどそのころ、ある地方チェーン書店が郷土の本の棚を拡充するという話が舞い込み、「だったら、ただ本を送り込むだけじゃなく、みんなでフリペを作って各社の宣伝をしませんか?」と持ちかけたところ各社意気投合、地元7社合同で創刊の運びとなったのだった。
この「はかた版元新聞」は第19号を発行(最後は12社が加盟)したところでストップしてしまったが、毎号、各社の編集者のエッセイ、営業マンの日録や新刊紹介、さらには街の小書店のオーナーへのインタビューや福岡ならではのベストセラーを発掘する特集など、読み物としてもそこそこ充実していた。各号約1万部を刷り、市内書店を中心に店頭で配布していたが、毎回の発送作業は各社の担当者が集まり、遅くまで封詰め作業にいそしんだ。作業が終わると打ち上げ。盃を酌み交わしつつの雑談は、情報交換の場所でもあり、また小出版社の孤独を癒すオアシスともなった。その後、この集まりを頼って県内外の書店からフェアの打診なども来るようになったし、ささやかでも意義はあったのではないかと思う。
*
さて、第4号を出した2001年春、福岡都心からほど近い赤坂の「けやき通り」に小さな個人書店がオープンした。それが大井氏の「ブックスキューブリック」だった。
当時は天神を中心に巨大書店が続々と出店する一方、地域の個人書店が廃業を余儀なくされていった時期で、なかでも福岡都心部は全国有数の書店激戦区と言われていた。
私が出版の世界に入った1990年代前半はまだそこまでキナ臭い世情ではなかったが、本作りの工程は徐々にデジタルへと移行し、業界全体の売上は96年をピークに徐々に下降を始めていた。追い打ちをかけるようにネットや携帯電話が普及、人々の消費行動が劇的な変貌を遂げる転換期のトバ口にあった。一方で福岡は「大都市の割に本が売れない街」と囁かれてもいた。
そんななか、キューブリックの開店は無謀な挑戦とも思えた。実際、「藤村君、あの本屋、すぐ潰れるだろうから早めに『はかた版元新聞』で紹介してあげたほうがいいよ」などと注進する某全国チェーンの店長もいたので、さっそくキューブリックを訪ね、インタビューをさせてもらった。
記事のタイトルは「不況で良かった!? 〜2001年、町の本屋の旅」。先見の明というべきか、今読んでもその主張の核心部分はほとんど変わっていないと思う。
『はかた版元新聞』第4号の大井実氏インタビュー。
その後の第6号で転勤族も含めた福岡在住の書店員で座談会を開催した折、ある書店員が「福岡には“本の街”がないだろ? こんなに人口が多いのに本が売れないのはそれが理由だよ!(読者を育てる)土壌がないんだよな!」という趣旨の発言をした。実は彼こそが、キューブリックはすぐ潰れるから早く行けと注進した某全国チェーン店長なのだが、彼の発言にも確かに一理あった。福岡には、神保町のように新刊・古本・版元が渾然一体となったような地域はない。それに加え、福岡という街はコンパクトで、(それが良さでもあるのだが)大多数の通勤圏は10分から、長くても1時間程度。自転車通勤も多いため、行き帰りに読書なんていうわけにもいかない。終電を気にする必要もなく、みな遅くまで飲んだくれ、週末は海へ、山へ、温泉へ、道の駅へとドライブ。物価も安く、生活を営むには天国のような場所だが、期待をしてマンモス店を出店した全国チェーン書店にとっては、実は荒涼たる不毛地帯だったかもしれないのである。
『はかた版元新聞』第6号の書店員座談会。
*
冒頭の「立ち飲み屋談義」は、そんな発言があって4年ほど後のこと。すでに懇意となっていた大井氏と私はすぐさま地元の書店や出版社で働く有志15名ほどを募り、実行委員会を起ち上げた。不振の業界を救うような気は毛頭なかったが、どうせならいろんなことをやってみようとアイディアを持ち寄った結果、作家のトークショーや、競合書店を横断するフェア、パパたちによる絵本読み聞かせや官能小説の朗読会など、 “本の文化祭”のような雰囲気になった。
ブックオカ恒例となった「福岡の書店員が選んだ激オシ文庫フェア」の様子。例年、消化率は40%を超える売上げ。
こちらも恒例の「書店員ナイトin福岡」。第1回目のゲストは作家・白石一文さんだった。
「カフェで再現!ブックレシピ」と銘打った企画では、市内10数軒のカフェで絵本にちなんだ創作メニューをつくってもらった。
「福岡らしいネーミングを」という理由で、イベント全体の名称は「ブックオカ」(ブック+フクオカ)とした。キャッチフレーズは「福岡を本の街に」。その後異動となり福岡を去った例の某全国チェーン店長に対する私なりの返歌でもあった(別に悪意はありません今でも感謝しておりますので念のため!)。
幸いにしてブックオカは初年度から好評を博し、メインイベントの「一箱古本市」(2016年から「のきさき古本市」に改称)には1万人近い来場者が詰めかけた。
2006年の古本市。中には30年探していた古本を見つけたお客さんもいた。
こうした動きは以後10数年の間に各地に飛び火し、東北から沖縄まで、50を超える地域で同様のブックイベントが開催されるようになった。
出版斜陽の時代に、なぜこうした動きが広がっていったのだろう。理由はさまざまだろうが、共通するのは旧来の読書推進活動のような啓蒙臭や、あからさまな業界臭を排した点。あくまで主催者自身の動機を大切にしながら、参加者と一緒に本で遊ぶ。この楽天性は、わがブックオカの最も得意とするところだ。打上げの美酒に酔いしれていたらそのまま日をまたいでしまい、案の定、翌日のイベントではみなボロぎれ状態、なんてことも一度や二度ではない。
いま出版業界は、目先の売上げ確保のために、たとえ安直な内容でもとにかく本を作り続けなければならないという構造上の矛盾に陥っている。結果、書店の棚は活気をなくし、いきおい読者も離れてしまうという悪循環だ。「読書離れ」への呪詛をつぶやく前に、自分たちにできることがまだあるはずだ―—この12年で得た最大の自戒である。
2015年には「本と本屋の未来を語ろう」と題し、2日間計11時間にわたる車座形式のトークイベントを開催。ゲストとしてトランスビューの工藤秀之氏や大阪のスタンダードブックストア・中川和彦氏、荻窪のタイトル・辻山良雄氏、『文化通信』編集長の星野渉氏、さらには取次大手であるトーハン、日販からも中堅の担当者が参加。その模様は『本屋がなくなったら、困るじゃないか』として書籍し、西日本新聞社出版部から刊行した。
ブックオカではこの間、延べ300以上のイベントを催してきたが、先日12年目の全日程を終了した(九州では初めてとなる「版元ドットコム」の説明会も開催することができた)。さすがにみな12年ずつ歳をとり、くたびれてきたところでもあったのだが、今秋、福岡県文化賞なる賞をいただくことになり、簡単にやめることもできなくなってしまった。
今後は、本と街をつなぐイベントを引き続き開催しながら、本をつくって売り続けていくための「インフラ」づくりに重点を置いた活動にシフトしていきたいと思っているが、一朝一夕に実現できることでもないので、とにかく気長にやっていくしかないのだろう。
いずれにせよ、福岡という地方都市から、本の持つ力を信じながら、地道に、ささやかに、活動を継続したいと思っている。