誤植にまつわるエトセトラ
なんとか刊行の期限に間に合って、やっと本が完成、製本所から無事見本が届く。
クラフト紙を破って、できたてほやほやの本を手に取る。
ページを開くと……、なぜか赤と緑の2色で文字が印刷されている!
図版もほとんどないような文学の研究書なのに!
印刷後に刷り出しもきちんと確認したはずなのに!
しかも、なんでこんな目がチカチカするようなアバンギャルドな色合いなんだ。
やばい……、500ページの上製本が全部作り直しだ……
ガバッと起きると額には脂汗。午前3時。夢でよかった……
とんでもない本ができちゃったとか、誤植で冷や汗とか、そんな類の夢を出版関係者なら一度や二度は見たことがあるのではないでしょうか。もうこの仕事を始めて20年にもなろうというのに、こんな夢をときどき見ます。
以下は夢ではなくて実話。
ある若手研究者の初めての単著で、ありがたいことに学会の奨励賞をいただいて、その授賞式でのこと。
担当編集者としてスピーチをして、そこで重版が決まったことを自慢気に喋りました。その後の懇親会で著者と歓談していると、選考委員の先生が近づいてきます。「気づいているとは思うけれど、重版するってことだから、念の為伝えておくと……」といって、その場で誤植を指摘されたときの恥ずかしさたるや。鬼の首でもとったように言ってくれたらそれはそれで開き直れるのだけれど、小声で申し訳無さそうに指摘される誤植は応えます。
穴のあくほど見つめたゲラでは気づかなかった誤植が、印刷された本だとなぜ向こうから目に飛び込んでくるのか。
最初に就職した出版社で上司から習ったのは、ゲラには一人静かに正対し、身の回りには筆記具と辞書以外物をおかず、精神を統一して校正にのぞむべしという教えでしたが、社員数人の零細出版社であれば、20代の下っ端は営業兼総務兼雑用係兼駆け出し編集者なわけで、鳴った電話はとらねばならず、来客にはお茶を出し、注文された本を出荷し、その間隙を縫ってゲラに向き合うというのが現実でした。
ひとりで出版社をやっている現在も(面倒な社長業が加わっただけで)その状況は変わらずじまい、今でもノイジーな中でゲラと向き合っています。
誤植をなくすべく、校正をどこまで徹底するかは、出版社の規模や出版物の部数に大きく依存するでしょう。文芸書を出すような大きな出版社には校閲部がありますし、校閲部がなければ外部の校正者に出すことも多いでしょう。中堅どころの某大学出版会の方に聞いた話だと、そこでは外部には出さないが、担当の他に必ず一人以上の編集者にゲラを読ませるということでした。
それが数人規模の小さな専門書の出版社になると、ゲラを読むのは著者と担当編集者だけというパターンが多いと思います。自分がかつていた出版社も、今の七月社も同じです。
当然、校正の専門家が関わったほうが誤植は減るはずだし、それによって本のクオリティは上がります。ただ、そのようなクオリティの高さとは別の尺度でも「良い本」はあるはずです。クオリティを上げるためにはお金がかかる、単純化して言ってしまえばたくさん売れる本でなければそのような意味でのクオリティは上げられません。
世の中のほとんどの人には無用だけれど、どうしても必要な人、読まざるを得ない人がいるのが専門書です。校閲部もなく、外部の校正者に出すこともできない、それでも著者と担当編集者が必死にやりとりして作り上げる本。そうやってしか世に出ていくことができない本。
電子書籍であれば間違いは随時訂正していくことができますが、印刷された紙を束ねた本は、逃れ難く身体的なもので、身体にはどこかに傷があります。
「誤植がない本」は、どこまでいっても「これから誤植が見つかる本」でしかないし、すでに「誰かが誤植を見つけてだまっている本」かもしれません。「誤植は初版本の持つスティグマ(聖痕)」という言葉を聞いたことがありますが、そこまでかっこつけなくとも、誤植は本という身体の(本が売れて重版ができないと)消せない傷であることは間違いありません。それは本を作った人たちの格闘の(あるいは戦わなかった)痕といえるのかもしれません。
傷をできるだけ少なくすることは本を作る人間の責務だとは思いますが、その努力や、努力しても残る傷を内包して存在する本という身体には、なんとも言えぬ愛着と尊さを感じます。
と、そんな自己正当化の弁をたれながら、雑用係兼(もはや駆け出しとはいえない)編集者がさっきまで作っていたのは正誤表です。これはさながら傷を隠す絆創膏でしょうか。